早朝の気持ちよい空気を吸いながら、勝連半島の小高い山にある城趾のプロフィールを眺めつつ、のんびり公園の中を歩いていると、なにごとにも積極的な気分になってくる。沖縄での2年目が近いということでもあり、新しいG0細胞変異体の分離をするためのいろいろな考えをめぐらしてきたが、だんだんアイデアがはっきりとした姿を現してきている。こういう時期は嬉しいし、楽しいものである。
わたくしは人まねの研究が嫌いである。他人が人まねの研究をするのはまったくかまわないが、自分の研究室ではどうしてもやりたくない。ヘンな表現だが、人まねするくらいなら、清水の舞台から飛び降りた方がましに感じるのである。
これはわたくしが若い頃に経験したトラウマと関係がある。わたくしは20代半ばで欧州に留学したが、その頃の日本に対する評価の一番典型的なものは「粗悪な物まね類似品を作る国」、というものであった。このような評価は、いまは世界中まったく存在しないだろう。しかし、40年近く前だったら、まずそんな評価が定着していた。しかも、そういわれてもしかたないような工業製品がたくさん日本から海外に輸出されていた。
すぐ壊れたりするようなひどい「類似製品」をみると、現地の人ばかりでなく、研究所の仲間のようなインテリ連中でも、それが日本製品でなくても、「ジャパニーズ」といって嘲り笑うのを、何度か見たことがある。安価な大量製品に対する警戒心はもう当時からあった。そのシンボルが日本製品だった時代である。それが転じて「日本人はとりあえず物まね人種」という評価(偏見といいたいが)は欧州ではことさらに強くあったように感ずる。日本には物まねでない、完璧にオリジナルなものがたくさんあるのに、とわたくしは随分口惜しい思いをしたものである。
人まねの研究をしないと自らに課したおかげもあり、オリジナルな研究とはいかにやるべきか、そのすべはこの年になれば体得したような気がする。
オリジナルな研究をすること、それ自体は難しいことではない。ただ優れたとか画期的なとか、形容するようなオリジナルな研究はもちろん難しい。いまの日本だったら、オリジナルな研究は研究費が非常に乏しい研究室ではやりやすい。ある程度の研究費があると、一番お手軽な研究は人まねだからである。お金がなければ、いまの時代模倣すら出来ないだろう。
つまり、ひ弱なそのままほっておくと継承者も出ないで立ち枯れてしまうようなオリジナルな研究というのは実は割合多くみかける。そういう研究はおおむね引用もされないし、本人以外は誰もいったい何をやってるのか理解できない。オリジナルとは言え、とても重要そうな研究には見えない。立ち枯れてしまうような、もしくは忘れた頃にしか細々とした続きの成果が出ないような研究、他には世界中のだれもやらないような研究が脆弱オリジナル研究の大半である。こういう研究を実体以上に褒める必要はないが、その様な研究がなされうるような空間は相当量残しておかないといけない。ある程度のサイズの研究室なら、研究主宰者に器量さえあれば、そのようなオリジナル研究空間はもてるはずである。
現象的に言って、優れた画期的なオリジナルな仕事は、実はそういう一見脆弱な土台から、突然とてつもなく力強い発見、もしくは万人が理解できるような画期的な概念が生みだされがちなのである。その変換はまさにある日突然起きるのである。もちろん自然におきるのではない。待ってる人だけにわかる素晴らしい発見が、ある日なされるのである。
弱々しいオリジナルな研究がひとたび生産的な状況になると、進歩は激しく日進月歩となり、多くの人が集まってきて騒然となり、回りじゅうが大変だと走り回る。
オリジナルな仕事をするには、静謐で誰もがやりそうもないようなテーマを自ら作り出すか、先人の仕事でそのようなものを見つけたら、それをいかにして力強くまた進歩が明確になるようにテーマを転換できるかである。つまりテーマの転換能力が試される。転換に3.4年かかるのはあたりまえだろう。
しかし30代、40代の前半くらいまでの多くの研究主宰者は誇るべき成果を持たないのが多いのだから、その3,4年の時間の投資を非常に困難に感ずるものである。オリジナルな仕事をした人達の経験を聞けばたいていの人は信念と情熱でこの困難な転換の時期を乗り切ってる。オリジナルな仕事に一度でも大成功すれば後は一生そのことを再現しようと繰り返しながらやっていける。
当たり前だが、一度も成功しなければ一生出来ない。機会は誰にでも均等に与えられるはずだが、それを手中に収められる人は非常に少ない。その理由はある日起きる突然の転換点までその研究が成功するかどうか本当のところ分からないからである。たいていは止めてしまうものである。