あと十日もすると定年退職だが、ここに来るまで色々あったので、感傷にふけるようなことはない。しかし、これからやってくるであろう研究者としての相当な苦難の日々を想像すると憂鬱になることは事実だ。しかし、日本で研究を続けようとすれば予想される当然の困難なのだ。
わたくしは数年前から退職後、現場の研究者をいかにして続けるか、思いめぐらしていた。米国に移ったらどうかと勧めてくれた人達も居たが、最初から選択肢にはなかった。その理由はちょっと申し上げにくい。
心がかなり傾いた一つのプランとして、英国C大学の遺伝学科に研究室を持って、年間の半分くらいは海外で過ごし、残り半分は出来たら国内のどこかで小さめの研究室を維持しながらやっていけないかというものがあった。幸いなことに、研究費をわたくしが日本国内で獲得できれば、C大学の可能性はかなり高いものとなった。英国にも定年制はあるので、非常に例外的にラッキーな話であった。しかし、わたくしの年齢ではウエルカムトラストも含めて、英国のグラントの新規申請は難しいとのことだった。
世話をしてくれた旧知で研究分野も非常に近いG教授は熱心に動いてくれて、ラボスペースも用意してくれた。彼はわたくしを呼ぶことが意義があるとして動いてくれてるのだが、細かいところまで気を使ってくれて、本当に友情に篤い男だ。わたくしも実際に遺伝学科を訪問して、いろいろ楽しいイメージをふくらませたものだった。
国内ではJSTの国際協同研究というものがあり、自ら応募は出来ないが、二年前には幸いその候補にもなれたので、かなり本腰を入れたグラント申請書を書いて、期待したものだった。しかし残念ながら、申請はアクセプトされなかった。どういう理由かは分からないが、漏れ聞くと審査委員の支持はほとんど無かったそうだ。そういうことはままあるので、しかたないのだが、わたくしのこれからの研究者人生を考えるうえでもっとも決定的な敗退であったことは間違いない。誤解されるのを恐れずに言えば、あのJSTグラントが通っていたら、いまのわたくしの研究者生活とはかけ離れた日々がおくれたであろうと、いまでも折々に思う。またわたくしが、研究者として自分が生まれたこの日本という国にもっとも貢献できる道ではなかったかともおもえたのだが。しかし、思い通りにいかないのが人生なのだと思わざるをえない。
しかたなくと言ってはいけないのだが、グラント申請が駄目でがっかりした頃にNature誌に公募のアナウンスのあった、沖縄科学技術大学院のInitial Research Projectの申請に本腰を入れた。これは内閣府がJSTに委託した5年間の時限の研究事業である。申請時にわたくし自身はK大教授なので沖縄に常駐しないで研究推進の責任を負うというスタイルの提案になる。うまくいけば、新規ラボが立ち上げられるので、K大での退職後も研究の現場に居られる。
ただ問題はわたくしがK大で代表者をしている特別推進COEの研究内容と重複するわけにはいかないので、まったく新規なプロジェクトを提案する必要があった。この事情はいま考えれば幸運であった。前から機会があればやってみたいと思っていた、G0細胞維持の決定因子を見つける、という挑戦的なプロジェクトを提案することにした。幸い常駐してくれるグループリーダーの候補も見つかった。研究費の申請書は英語で書いたのだが、かなり熱がこもり、充実したものを書くことが出来た。
この後はかなり込み入った話が色々あるのだが、ごくごく短く言えば、100件以上の応募の中からわれわれの提案は昨年の2月だったか、幸運にも採択された。その結果、短期間に研究室を立ち上げることとなった。そして5月にはグループリーダーを快諾してくれたSMさんとポスドク2名、それに3人のサポート要員からなる研究室が動き出した。
それでは、K大の方の研究はわたくしの定年後、どうなるのか。染色体の分配メカニズムはいまでは非常にホットな研究分野となってしまい、研究の進展は待ったなしのペースである。わたくしのところの若い人達も必死になって研究をしているのが多く、彼らの努力には十分対応するだけの時間とエネルギーも割かねばならない。しかし、10日ほど前に書いたように、研究者としてのわたくしは悲しいかなサドンデス状態なのである。
ラボはどうなるのか、学生の処遇は?秘書さんやテクニシャンの人達は?いったいどうなるのか。彼らもそうだが、わたくしも含めて、外から見れば、まったく不可解な立場におかれている。もちろん内から見てもそうなのだが。このあたり、うまく整理して、また明日にでも書きましょう。
なおトロント在住の著明な構造生物学者である伊倉光彦教授がわたくしのブログを読んでくださり、ご自身のブログ(http://blog.goo.ne.jp/mikura2005/)で定年問題を論じておられる。ご興味のあるかたはどうぞ。