いまの研究の発端

きょうは所用で東京へ日帰りで出張。早朝に出て、所用の前に、東京に住む娘夫婦のふたごの孫二人を見ました。5か月になったとか。かわいい。しかし、土曜日の出張は疲れる。妻はまだ東京。

わたくしの研究上の興味は染色体にある。遺伝子の担い手の染色体である。ヒトには46個の染色体があるが、23個ずつ母と父から継承されているのは誰でも知っていることでしょう。この染色体が親から子の細胞へ正確に継承されている仕組みを長年調べています。染色体の数がいかにして恒常的に保たれてるか、そういうふうに問題を言い換えてもいいでしょう。がんの細胞ではほとんど例外なく、染色体数が異常になっているので、染色体数の異常が細胞のがん化の原因なのか結果なのか、ながいこと論争になっています。
わたくしの研究者の出自は分子生物学という分野で、目にはまったく見えない分子のレベルでの生き物のいろいろな性質をしらべます。この分野はもともと過激な考えが強い人達が創始しました。ばい菌で分かったことは、すべてヒトでもゾウでもクジラでも正しいと、平気で断定するようなある意味で非常識な人達でした。つまりウイルス、細菌とか普通の生物学者が見向きもしないようなものを、モデル生物として取り上げて、これで正しいことは、他の生物でも正しい、と言い張る研究者達です。この過激派集団はたくさんの成功者を生み出してますし、20世紀後半の生物学の激しい進展を引き起こした、代表的な一派でしょう。
若い頃のわたくしはそういう過激派の末裔でした。細菌に取り付くウイルス(ファージといいますが)を染色体のモデルとみなして結局十年くらい研究しました。しかし、だんだんこの考えの旗色が悪くなってきました。ファージの構造が詳しく分かるにつれ、どう考えても、ファージが高等生物の染色体と似ていると言い張るのは難しいようでした。特に染色体の基本となるクロマチンと呼ばれるものがスッキリと分かりだしてきてみると、どこを見ても、わたくしが日夜研究していたファージの構造との類似点を探すことは無理でした。潮時かなと、思わざるを得ませんでした。そして、30代半ばには「ほんとの染色体」をやはり取り上げないと、いけないと思い出しました。
そして、顕微鏡でよく見えるヒトの染色体ではなくて、そんな染色体なんてものがあるのかどうか疑わしいと、当時の染色体専門家がみなしていた、菌類の染色体を研究の対象にしました。なぜ菌類である酵母を選んだか。ウイルスでわたくしなりに熟達した遺伝学的なアプローチが可能だからでした。それに、見えないものを見えるものにする、これがわたくしの個人芸でした。若くして教授になれたのも、見えそうもない不可視的なウイルスの構造を、あの手この手で見えるようにした業績のおかげでした。
酵母菌(実際には分裂酵母というものですが)の染色体なんてほんとにあるのですか?と疑わしい顔つきできかれたことが当時何度もありました。染色体のDNAが一続きなのかどうかが全然分からない時代ですからしかたありません。
そんなとき、カビの染色体をちゃんと見えるようにするということと、カビの染色体が親から子にうまく伝わらないようなミュータント(変異体という)を作ろう、こんなものがわたくしが教授になった頃のスローガンでした。28年前になります。
そんなテーマが成立するのか、疑わしい顔をする人達がまだまだ多い時代でした。そんな時に、わたくしはまあカビにもヒストンがあるのだから、大丈夫でないの、とうそぶいてました。ヒストンはヒトの染色体にもあるDNAに結合するタンパク質です。案外こんなことを心の支えにして、数年間のある意味で賭の研究に乗り出すのですね。だから、数年後に、染色体を一つずつ見えることが可能になったときはほんとに嬉しかったものです。
これを最初に見たのが早逝した梅園和彦さんでした。彼はわたくしが所属している研究科の初代の教授の一人でしたが、発足の最初の週に亡くなりました。。このカビの染色体を仲間だった登田隆さんたちと一緒に見始めたときには彼はまだ20代の始めでした。
わたくしは、定年退職の機会に多数の一緒にやった若者達の顔を思い出しましたが、死者となってしまったのは梅園さんだけでした。
話がずれたかもしれませんが、わたくしの今の研究の事始めのエピソードをちょっと書いてみました。

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