三回実験をやって、のぞみ通りの結果が一回、のぞみとは反対の結果が一回、データがとてもものにならない結果が一回、こんなことになることは、ありふれた出来事です。これで、この実験の結果を忘れてしまえば簡単ですが、こののぞみ通りの結果を、「まあいいや」ということで、論文に発表してしまいました。
さあ、これはどういう「嘘」に相当するのでしょうか。このようなごくごく単純な「悪事」でも、詳しく考えると、複雑な問題になります。この「まあ、いいや」と思った人は誰か。現場の大学院生かポスドクとして、それをボスには黙っていて、のぞみ通りの結果だけを見せたとします。ボスがなんべん実験をしてこうなったか、聞かなければ、現場的には「嘘」は自分の内面で一回だけついたことになります。聞かれて、複数回このような結果がでたと言えば、二回嘘をついたことになります。これはかなり深刻です。
もしも、これをボスが一勝一敗だということを知りながら、なおかつこの望み通りの結果を公表してしまえば、ボスは現場と共犯関係で嘘をついたことになります。公表した論文のデータは再現性はもちろん前提ですから。
この「嘘」のある論文が誰も気にしないような、引用もまずほとんどされないようなものだとすると、この「悪事」は誰も気がつかないことになります。
ところが、結論が重要で、大切な論文だとみなされる論文となり、なおかつ、一勝一敗のデータの部分が実はのぞみ通りの結果でなかったほうが本当は正しかったことになると、厄介な問題となります。単に誤った論文ということでなく、現場の研究者がボスがこの誤ったデータをまあいいや公表しようとしたと、証言すると「データの捏造」という嫌疑がかけられる可能性が高まります。これは、たいへん怖い話です。データの捏造は、科学研究の世界では最悪の行為とみなされるからです。簡単な悪事がとんでもない極悪的な悪事になりかねません。誰も気にしないつまらない論文だったら、そんな問題は起こらなかったはずなのに。このようケース、どうかんがえますか。
さて、次の問題です。
論文に発表したいデータにちょっとまずい余計なバンドがあります。これをできたら見せたくありません。写真なので、カッターナイフでその部分を切り落として発表しました。審査委員は特にこの切り落としたこと(いまならフォトショップで簡単に切り抜けますが)に文句を言われなかったので、そのまま公表されました。実際同じような見せたくない部分を切り落とす(トリムする)事は誰もがやっています。
ところが同じデータを、この余計なバンドを修正インクか何かで、隠してしまいました。フォトショップなら、消しゴム機能で余計なものを消してしまったのでした。これはたいへんまずい行為です。データに改ざんを加えているので、「捏造データ」になってしまいます。
ところで、このようなデータがあるにせよ、論文の他のデータは正しく、結論も正しかったとします。それですめば誰も気がつかなかったのですが、フォトショップの消しゴム機能で変えたデータを公表したと、内部告発があってしまいました。
さあ、この問題にどう対応しますか?
それほどの罪ではないのではないか、という意見と、結論と無関係に「明白な捏造」なのだから、罪は重大と考える意見があり得ます。これらの中間にいろんな意見があるでしょう。若い人の中には、困ったデータ部分を切り抜くのは悪くなくて、消すのは捏造というのは、どうも納得できないというかたもおられるでしょう。
それでは、もっと悪質なデータを意図的に捏造したケースを考えましよう。その様な場合はたいてい、ある特定な結論を出すために、それに合うようなデータを意図的に捏造したケースです。このような場合該当実験は実際にはしてないし、データは完全に人工的なものとなります。グラフやパターンなら自分で勝手にかく。画像なら何か偽のものを結論に適合したようなものを作り上げる。このような捏造データは上で述べたのとは次元がちがう悪質さとなります。
このような悪質な捏造は決して起きてはならないのですが、経験的には折々に起こるとおもわねばならないのです。どんな平和国家にも犯罪はあるようなものです。わたくしは長年こういう問題には性善説で考えていましたが、ある時期から、かなり性悪説に近くなって、悪質な捏造は常に起こりうると考えるようになってきました。それに伴って、いろいろなデータの嘘を考えるようになりました。
データを改ざんするのはもちろん言語同断だが、切り抜くのもそれが意図的なら非常にまずいことだということを認識する必要があります。余計なバンドもデータ的に見せて夾雑物だと説明すればいいことなのです。
さて、一番の問題はこのようないろいろなグレードの異なる嘘に対してどのように対処するかです。自らの問題として考える必要があります。
そして、大いに議論する必要があります。
臭いものには蓋をするのはいちばんよくないのです。
過剰な処罰はいけないし、しかし一方で不正直さを知りながら見逃すのもよくない。
表に出して、議論することが一番。データ提示に極端な潔癖さを要求するのはどうかと思うが、一方でなあなあ的な態度は、最悪の意図的捏造への道を容易につくることになる。
データの嘘に触れて議論することを、怖がることはないのです。
真の正直というのは気弱のものでない、力強いものです。