時間のかかるコミュニケーション

親子が同じ家に長年いても、意外に意志の疎通がちゃんとできてないように、研究室で何年も議論を繰り返しながら、やってるのにちゃんと分かり合えてないことがほんとによくありますね。
いちばんコミュニケーションがしにくいのは、その研究がどこにたどり着くだろうか、というイメージのようにおもえます。
ある意味では、これは当たり前だと思います。経験の差が大きいのです。着地経験が何度もある指導者と、一度もないような大学院生では、実験の具体的な内容では十分意志の疎通があったとしても、結局この研究がどのような「おはなし」になるのか、思惑がまったくかみ合わないことが多々あります。
だから、相互に理解し合えると充実感がうまれます。さらに達成感がうまれます。
そのような契機はやはり大抵は新しいデータが生み出してきました。
ごく最近、難解なテーマを着実にやってきたTY君ともそのような「充実感」を共有できる機会がありました。
次々に難解な実験を彼がこなしてるうちに、新しい問題が存在することがはっきりしてきました。
わたくしとしては、その様な問題が存在すればたいへん面白い、と考えていたのですが、そのことの理解はたぶん、彼にとって非常に困難だったろうと思われます。着地体験の差からでる、ちがいですから、しかたありません。こんご比較的短時間で問題は解けるのではないかと期待され、答えがどうでるか、興味津々です。

考えのすれ違いは、ほんとに多いですね。
偏差値学生のわたくしのブログにはいろいろ意見がありましたが、わたくしの意図が「昔はよかった、昔の学生はいまよりずっとましだった」、と言いたいために書いたと思われる人が多かったようでした。しかし、そんな考えはまったくありません。このブログで、研究のことで、わたくしは過去がいまより良かったという、類の言動は一度もしたことはないはずです。今回、そう取られたのは、わたくしの書き方がその点あいまいだったのです。
昔の学生にも問題がありました。しかし、それでいまの学生の問題がなくなるわけでもないでしょう。いまにはいまの問題、しかもそれが相当に深刻なのがあるのではないでしょうか。わたくしは、昔の学生と比較してがっかりしてるのではありません。比較なしにがっかりしてるのです。しかし、そのトーンはどちらかというと、わたくし流の激励のつもりでしたが、一部のかたには通じたようですが。
今より、昔が良かったのなら、自分のこれまでの努力を否定するようなものです。未来が良くなるように一生懸命自分流で努力してきたつもりなのですから。
話がずれますが、日本の生命科学が現在順調にかならずしも進歩してないのではないかと、心を痛めています。もっともっと良くなるはずなのに、なぜそうならないなのだろう、としばしば考えます。わたくしには、その原因が掴まえられません。わたくしの目が大学、特に従来の有力大学や研究所の状況に行き過ぎなのかもしれません。もしかしたら、他の場所ですばらしいいぶきが生まれてるのだといいのですが。
ただ、急いで付け加えると、海外の研究者には日本の生命科学の躍進はすごい、というかたが多いのです。そう見える部分は確かにあります。しかし、これまで過小評価されすぎていたのがまともになってきた面があるのです。正当に評価されだしてきたので、いまが躍進のチャンスなのですが。

時間のかかるコミュニケーションの代表例は、日本と隣国の韓国や中国ですね。最近の出来事を見ると、次々に芳しくないことが起きてますので、悲観的な気持ちが先に立ちます。隣国間の友好の基になる建て前としての考えが、国ごとに全然違うのではないか、とも思えます。多分そうなのでしょう。そうならばたいへんに将来が憂慮されます。仲裁役がいないので、日本は、適切なおとしどころというか、解決策をみずから見いだして、みずから仲裁役の分の役割も演じないといけないのかもしれません。そんな、政治的な忍耐心と賢明さを必要とする役割を戦争から60年も経った今の日本の政治家が演じられるのだろうか、と憂鬱になります。民のレベルでは、韓流ブームとかで、日本からの韓国文化への親近感は非常な高まりを見せてるのですが。
最近、イザヤベンダサン(山本七平訳)の幻の書とか言われる、「日本人と中国人」を読みました。日本人と中国人は2千年間一度も互いに理解したことはないという主張の本です。難しい本に感じましたが、啓発されました。

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