昨日のつづきのような、そうでないような。
非常にローカルな話題でも、読んでくれている人の中にはなにか共通に感じるものがあるのですね。
わたくしは小学校は、いちおう給食世代です。悪名高い、脱脂ミルクとクジラのベーコンが毎日のようにでました。1,2年の頃は2部授業で午後の時は午前組が給食を食べて帰るのを廊下で教室の中を覗きながら、待ってました。その時に、自分が何を昼飯に食べたのか記憶ありません。
中学校は弁当でしたね。高校も弁当、たぶん週に一回くらいはパンを買いに外に出た記憶があります。
大学の1年は生協のカレーをやたらに食べた記憶があります。2年になって、生協よりもっとまずいのだけれども何となく自由度があったK駅下のぱさぱさの中華そばを食べてました。食い物には決して文句を言わない、というのがあの頃のわたくしの美意識でした。
大学院では、研究室から数分の丼ものと麺類を食わせるところに折々に行きましたか。至近距離にある恐ろしくまずい飯屋に、ときおり怖いもの見たさというか経験したさにいってやはり不味いことを確認した記憶があります。大学生協の食堂のだるい感じが非常に嫌で、なるべく行かないようにはしてましたが、それでも折々にはいってましたか。
大学院の途中から、スイスに行って、始めて昼飯を職場の仲間と皆で楽しむという習慣を持ちました。それに飲み物(大抵は水より安いコップ一杯のビール)、メニューの食べ物、食後のコーヒーときちんと分けて注文する昼飯の生活をしてまったく昼飯観が変わってしまいました。
「お腹に入れればいい」から「食べたいものを食べる」という、コペ転(コペルニクス的転換)が起きてしまいました。それにおいしい昼飯を毎日食べる背徳的な喜びがいつのまにか当たり前の感じになってしまったのでした。
それからのわたくしは昼飯にはうるさくなってしまいました。といっても、何でも食べますが。
K大に来てからも30年間、周辺の一番安めの昼飯屋にしか行きませんでしたが。
スイスの後で、短期間(2か月ちょっとですが)イタリーのナポリで生活をしたのも食べ物について、うるささに個性を加えました。ナポリは極端に不味いところもあるし、とてもおいしいところがある。値段とはあまり関係がないのです。それに、見た目とうまさが随分一致しない。だから、食い物には独特にうるさくなります。モッツアレラ、あれなんか変なものですよね。研究所の昼飯でみんながやったあ、とか喜んでるメニューがモッツアレラで、レタスの葉が2枚あるだけで、何がやったァ、なんだと怒った記憶がありますが。
米国ではまだ若かったので、食い物のまずさにも不平は言いながらも、たいして気にしなくていましたが、今はもう米国流のしつこい昼飯は駄目です。しかし、当時は毎日ダウンタウンのマーケットでケチャップとマスタードでべちゃべちゃのホットドッグ食べてました。
K大ではとうとう生協での昼飯は最後の最後まで食べませんでした。なんでしょ、意固地でしたね。配達弁当なんかに手を出したこともありますが、大抵は外食でした。今出川通りの銀閣寺道あたりまで遠出することもありましたが、この30年間だいたい平素は4,5軒のローテーションで、たまに変わったり、値段の張る(といっても千円以下ですが)所に行ったものです。今でもよく行くところは500円のランチです。これがおいしい。
昨年春に引っ越したので、やはり場所が変わりました。でも似たり寄ったりの、食べ物が食べられます。外国からのお客さんもそういうところ連れてきますが、だれもランチにはちょうどいいと言ってくれます。
こんなリッチで安いランチを食べられる先進国は日本だけでしょう。東京に行くとランチの高いのにびっくりします。でも大阪は安い。やはり値打ちあるものを食べさせます。
いまは日本国内ならどの町に行っても迷わず、昼飯の一軒を見つけて、大抵は満足して出てくることが出来ます。
大学界隈でわたくしが決して行かない昼飯屋は何軒もありますが、その行かない理由を聞かれれば、たちどころに「論理的な」理由を述べることができます。