生命科学技術の振興は重点的な政府の政策的課題になってることはご承知のとおりです。
振興の対象は、生物でなく、生命であり、科学であるものの、実際には技術への転換間近かもしくは技術とのつながりが明白なものであることも確かです。
でもそれにもかかわらず、日本の基礎生物学はいま非常に潤っています。選別された研究室だけとはいえ、相当な研究費が回ってきます。応用色のつよい、特許も容易にとれそうな生命科学技術研究分野ではさらに一段と研究費が出まわってます。
しかし、それらが非常によいかたちで、つまりpositive feedbackポジティブフィードバックのかたちで我が国の生物学、生命科学の発展に役立っているかどうか、率直にいって疑問です。新しい、うねり、流れがこの国の中から生まれだしている実感がわたくしにはまったくありません。
その理由は、わたくしに言わせれば、まともな研究室主宰者があまりにも少ないことです。研究費が増額するのにまともな主宰者が増えてないのは本当に深刻です。国内向けの宣伝と生き方だけで研究費が獲得できるからです。
さらに深刻なのは、研究室の意味のない肥大化が有力大学の多くの研究室で進行中です。そんな能力もないのに沢山の学生やポスドクをかかえて、矮小な支配技術だけにたけた主宰者が増大しています。なぜ、肥大化が進行するのか、総体としての研究費が増えるのに主宰者の数はギルド的に抑え込まれてるので、研究費を増額した研究室はノルマ的に人員を増やそうとするのです。しかし、研究員はそれぞれが個性ある人間達です。知的にも本来非常に高い。こういう人達を心服させて研究室を運営するには、ある種の特別な能力がいります。そういう能力は世代的にどんどん後退してきた、これが日本の社会状況です。そのかわりそういうものとは、無縁な新しい良さが若い世代を中心に生まれだしてきている。これがわたくしの観察です。
はっきり言って、大きな規模の研究室運営能力はわたくしたちの世代をもって、終わりだと認識した方がいいと思います。団塊の世代すらそういう能力を持っていた人はわたくしの知ってる限り、5本の指にもなりません。それにもかかわらず、コマンダー的能力をまったく持たない40代前半から50代半の世代の人達が研究費を沢山取ったがゆえに大きなグループを運営する。それで、わずか数人のラボにも負けてしまうような、低い成果しか上がらす、その一方で有能な若い研究員がたまたま高い成果をあげれば、それを巧妙に取得する術は立派にもっているーーー。
人の多すぎる研究室はほんとうに醜い、こういう健全な感覚が今の若い世代を中心に増えてほしい。
わたくしとしては、大変こういうことは言いにくい。自らを振り返れば。しかし、教授を辞めたがゆえに、言いやすくなりました。
はっきり言ってしまえば、これがわたくしが「過剰な」ポスドクで書いたことの背景にある、感情です。書いたことと、感情は無関係のようですが、わたくししては奥深いところでつながってます。
わたくしの若い世代に対する、心からの応援のつもりです。「ポスドクの研究権、発表権は神聖にして犯すべからず」、そういう気概を持ってほしい。
上を目指すよりも、何か別のものを目指すべきではないか。もしこのブログを読む少壮気鋭の主宰者がおられたら、ぜひ周囲の同僚を見回して、自分の胸に手を当てて考えてほしい。肥大でなく、精鋭を目指すべきでないか。ポスドクを管理するのでなく、野に放つべきではないか。あたらしい研究運営を目指すべきでないか。
ところで、若い人達が、貧乏という言葉がきらいになったのはいつ頃のことなのですか?
失うものがなにもないものの持つ強さ、これが創造性の原点ですよね。