外からと、内からと  From outside, and from inside

暑いですね。
今朝はゼミがあると思いこんで電車に乗ってすぐに、なんだきょうから夏休みゼミは無いんだということに気がついてガクッと来ました。娘とふたご赤ちゃんがきたので今朝は比良山麓の方からでしたが、ラボには1時間15分くらいで着いて、これなら通えるかと思ったくらいでした。JRの駅まで歩けるのがここのいいところです。
朝、池の傍のしだれ柳でやかましく鳴いている最近問題のクマゼミを眺めていたら、その下にアブラゼミがいるのに気がついて、さらによく見ると8匹もアブラゼミが取り付いてました。去年この木は購入したのでたぶん土のなかに幼虫がいたのでしょうか。それともアブラゼミは柳の木が好きでどこかから飛んで来たのか。
今朝も収穫がすごい。巨大なキュウリが何本も。あと、トマト、ナス、オクラ、等。食べきれないくらい。長十郎の梨は、欲張って摘果しなかったので、姫梨状態ですが、味はきちんと長十郎の味がしました。桃も傷んでるのが多いが避ければたべられそうなの沢山ありました。

二つのコメントたいへん元気づけられました。一方でわたくしの分かりにくい文をかいくぐって真意を理解して頂いてありがたく思いました。
特にトラックバックの「フランスに揺られながら」さんのお書きになった(再掲させて貰いました)こと、たいへんありがたく思いました。

今日、K大のMY氏のブログを訪問。日本の研究者の中で、よい論文を書く人は増えてきているが、世界の舞台(学者仲間の中)でひとりの役者として渡り合える人が如何に少ないかを諦めに似た気持ちで書いているのが目に留まった。同感である。一番の問題は地理的なことが大きいと思う。日本は最初から同じ舞台にいないのである。場外になっている。その中でいい仕事をして、彼らの論理で渡り合うのは日本にいてはほとんど不可能に近いだろう。外に出てこの世界の文化的側面を肌で掴む必要がある。それをものにして、その世界に自然に入って行けるようになるためには、日本の学界、広く言えば日本社会のあり方が変わる必要があるのではないだろうか。もしそれを本当に求めるのであれば、外の人を責任ある立場に受け入れ(外人枠のようなものを設けて)、日本の中のそれぞれの社会・風土自体を変えていくしかないのではないだろうか。個人的には、その方が面白いことになるのではないかと思うのだが。そうでもしなければ、自前で世界と渡り合える研究者を調達することは難しいだろう。秋田に向かう空の上でそんなことを考えていた。」

外人枠と、社会風土を変えていくという、二つのキーコンセプト、まったくわたくしも同じような結論に何年か前から到達してます。同じことを考える人が増えることを信じて、その方向に努力したいと思います。

わたくし、日本に何度も来て日本を随分よく知ってるような友人には時に、こんなことを言います。「我々日本人が科学をやろうと意気込んでるときの気持ちは、オランダや英国やアメリカ(どこでも西欧ならいいのですが)の若者が歌舞伎役者になろうとして日本に意気込んできて来て修行しようとするのとあまり変わらないのですよ」、といいます。これにはさすがに皆キョトンとした顔つきをします。でもわたくしの真意は、科学はわれわれにとって自分のご先祖さまが始めたもの、という教育をうけてない、ということを伝えたかったのです。西欧での教育はギリシア文明が直系のご先祖様なのですね。どこの国に行ってもギリシア文明から哲学と科学が何であるかを学ぼうとするのですね。なぜ日本人はそう思えないのか、そう思えないように頭が、歴史ができあがってるのですね。かれらも、歌舞伎や能や水墨画は彼等のご先祖様が作ったものでないので「外から」学びに来るのですね。われわれも科学を外から学びにいく、これを早くやめたいですね。ソクラテスもアリストテレスもわたくしたちのご先祖様とおもって、科学を内から始めてもいいとおもうのですね。「フランスに揺られながら」さんも同じようなことを別な表現で言ってると思いました。

それからitさん、このひとのコメントも鋭く問題をついてますね。おおむねその通りだと思うのです。結構書けそうでかけないことがあるので、そこを避けて通ってると、いつのまにやら読む側には何を言いたいのか分からなくなってくると思われます。

「先生の研究室に来る学生さんも含めてほとんどは、研究人生にたどりつくまでに自分の強烈な個性を磨こうと全力を尽くしてきたわけでもなければ、研究者になると心に決めていてもそれも結局システム頼りで自分の力で研究能力を磨き挙げてきたわけでもない」

そうなんです。

「だからごく一部のアクティブな人を除いて、先生の部屋の学生さんのような相対的に意識の高い学生さんでも、先生が期待するような研究能力には至らず(少なくとも先生の研究室に入って数年の間までは)、先生の部屋で展開するような「はじめの科学」を周りの人に伝えるような高度な論文作成能力は学生に期待できないから、先生ご自身が書くしかないのが現状なのだと。」

まったく、そうなんです。
書けと言ったって、論文の相当部分は難しすぎて書けないんですよ。どういう意味があるのか、よく分からないから。
人のやることで一番難しいのは、やはり「評価」かもしれませんね。
創造的な仕事をする(というかより正確にはしてしまう)方がずっと易しく感じます。すくなくともわたくしには。

自分の仕事の評価も含めて研究成果、業績の評価はほんとに難しいですね。論文を書く中にはどうしても評価の部分が入りますので、やったことは書けても、論文を書く(やったことの意義や評価も含めて書く)のはわたくしにとっても、身を削るような難しさを感じることがあります。

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