お手本の大切さ

金曜日の夜は、院生のうち学位論文を提出するには時間の余裕がまだある修士2年から博士2年までの人たちと一緒に過ごしました。新規の院生はもういませんから、最後の院生が修士2年のH君なので彼から見ればまず修士の学位が関心の範囲で博士の方は随分先に感じるでしょう。でも、わたくしとしては、かれらになるべく早く公表論文を一つ持ってもらって、博士学位の後の洋々たる人生をじっくり考えて欲しい、と希望したいのですが、なかなかそういう余裕のある人たちが少ないのです。そういうわけで、はなしは湿りがちになったかもしれません。でも、たぶん後でかれらはいろいろ考えたでしょう。

最近、何人もの人たちの論文作成をして、彼らと毎日のように長時間つきあって、強く感じるのはお手本の重要性です。つまり、模倣がきちんとできるかです。わたくしの周辺では模倣がちゃんとできる若者が減ってます。模倣を迅速にして、完璧にできれば、それだけ創造的なことにつかう時間が増えるのですが。それがプロになる、修行の一番大切なところなのに。模倣の中には、マニュアルを憶えて実行できるようなものも含まれます。プロトコルといわれる、実験の手引書どおりに実行するようなものも含まれます。この実験面での模倣の大切さはよく理解されているようです(失敗すればまたやり直しで時間がとられますから)。前人未到の創造性の塊のよう実験はそう毎日やるわけではありません。しかし、自分がおこなった研究をパブリックにするための思考、プレゼンテーション、論文書きのレベルでの模倣の重要性をあまり認めてないようです。
彼らと話していると、どうもそもそも模倣にほとんど価値を認めていないような気がするのです。もっと突っ込んで言うと、そもそも模倣すべきものを本人が持ってないようなのです。持ってなければ、模倣能力もあまりある筈がないでしょう。
昔の人たちは、筆写ということをやって、本を一冊作ったようです。膨大な本もお手本をもとに筆写したことは間違いありません。字も絵も模写しました。
日本人として、もっとも創造性の豊かな科学者南方熊楠の記念館にいくと、かれが4歳くらいですばらしい大部の百科全書の筆写本を作っているのがわかります。その技の高さに驚きます。
学校教育でも、習字をやるときの紙の下に敷くお手本がありましたが、わたくしは地図のお手本が好きでした。おかげで、いまでも日本や世界の地図をだいたい暗記でかけます。いま、ああいう作業は小学校では人気がないのでしょうか。
わたくしは大学院生に気に入った論文があったら、最初から最後まで全部筆記して写しなさい、と時折真面目にいうのですが、残念ながら冗談ととられているようです。コピーペーストやpdfファイルダウンロードの数秒間でできる作業をなぜ創造性のまったくない作業に費やす必要性があるのか、そういう顔をしてます。
しかし、われわれの研究という労働の多くはまさにその創造性の一見無い部分に大量の時間を割くわけなのですから、その時間に手間が取られないようにするのは、上で述べたように創造性を目指すために絶対的に不可欠なのですが。英語がまったく駄目だと、ほんとに困るのもそういう点では同じことです。英語をしゃべるのは模倣の権化みたいなものです
しかも自分が生み出すものを公表して、その創造性のない部分が順調にできてなければ、ほかの部分はもっと駄目だろうと判断されるのは当然ではないですか。
研究室の院生の成功組とそうでないものを見ると、このお手本の模倣に対する態度と能力が一つのリトマス試験紙的な指標になっています

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