研究での秘密

ファン・ウソク教授の問題は日本でも理解が拡がりつつありますが、それでもやはり興味本位的になりがちです。韓国のダイナミックな評価の変化の激しさにはついていけないでしょう。韓国マスコミのやり方はたいへん激しいが、いっぽうでいさぎよい感じもします。昨日まで賛美していた人を、次の日激しく非難する、ある意味、大変立派です。渦中の人は大変でしょうが。
問われているのは、根本となる倫理観、研究をするうえでの中核となる倫理感覚の問題です。

ここまで書いてきて、きょうは「単一細胞の化学の将来」という話題のはずだったのですが、急遽変えたくなって、直接は関係がないのですが、「秘密性」ということについて書いてみたくなりました。

研究者というのは、ひとたび研究内容を公表したら、秘密があってはいけないことになっています。むかし、米国でのある会議で、あるタンパク質の結晶条件について、ある研究者が講演者に何度も論文を発表しているのに結晶条件を開示しないのはけしからん、条件を開示せよと迫っているのを聞いたことがあります。なんとその講演者はいまでもよく知られた人ですが、大声で、教えないと叫んだのです。米国ですから、満場騒然、大変でした。とてつもなく長い時間をかけて見つけたのだから駄目だといってましたが、それはいけないというのが研究者の世界では常識です。今では、開示しないと論文がその後アクセプトされなくなります。
10年くらいかけて営々と努力して見つけたり作ったりしたものでもひとたび発表されたら、無償で出さないといけないことになっています。出さないと凶状持ちのように非難されます。

しかしこれが営利のための研究であるのなら、秘密こそが企業利益を生みだす源泉なのだということも知らねばなりません。
企業の研究者のなかには自らが本当に一生懸命やってることはひと言たりとも言えない人たちが多いでしょう。自分の生活の糧は、秘密こそが守ってくれるとも言えるのです。
そうなると、非営利的な研究で税金などを使って行った研究はすべて公開ということでほんとにいいのか、という疑問も出てきます。
国策的な研究はどうなるのだ、国の税金といっても、納税者は自国の発展のために研究をしろといってるのであって、他国の人間のためにやれといってるわけではないだろう、国策のために秘密保持も大切だろう、こういう意見もあるかもしれません。
しかし、そのような考えに立ったら、研究の健全な発展は望めません。
どこの国も自国の利益だけのために研究をしたら、すべてが秘密かもしくは特許などの取得に向かってしまいます。基礎研究にとっては、最悪の流れです。
それでは、わたくしのように基礎研究をやってきたものにとって、すべてが公開であって、秘密はないのかということになりますが、実際にはすこしあります。
未完成の研究などはそれがまだ具体的な姿を現してない時にはしばらくデータをラボ内でとどめることがあります。
なんでも公開にしたら、はた迷惑な面もあります。われわれくらいの世代ともなると、
誰かが既に始めていると、遠慮してそれが完成して公表されるまでは、類似の研究を止めることが多かったのでした。最近ではそのような美風はへってきましたがそれでもまだ一部残ってます。中途半端でデータを公開しないのもそういう意味で、ある程度まとまってきたら、学会などで口頭やポスターで公開して、関係者の意見を聞くことがあります。
それ以外に、評判のよくない競合者がいる場合には、気をつけて秘密にすることもあります。
しかし、世の中では、論文での公表が確定するまでいっさい秘密にする研究グループが多くなっていることも確かです。
論文のレビューアーがその秘密のデータに始めて接する外部の研究者となり、そのレビューアーが論文の公表を遅らせて、その間に自分のラボでも追従する研究を始めることはざらにあります。あってはいけないと思うのですが。どこの分野でも常習犯がおります。
こういうわけで、秘密をキーワードにして、いろいろな強くて激しい行動をする研究者も基礎研究にはかなりいることは事実です。なかには論文を通りやすくするための捏造データのようなものまで、道を踏み外してやってしまう研究者がいるようです。

なにが許される秘密なのか、なにが許されないのか、実はこの価値観はかならずしも
共有されていません。秘密性について、いちじるしく異なった考えで研究者が研究をしていることは事実です。秘密性について巾のある思考はある意味で、しかたのないことだとわたくしは思います。
わたくしは出来るだけ秘密性のない研究をし続けたいと思ってはいますが。

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