魂を鎮める

わたくしは、信心深くはありませんが、それなりにプリミティブな宗教心はあります。実のところ、アニミズム的なものがいちばん性に合っています。つまり「たたり」とか、そういう類のものは信じると言うよりは避ける、そういう気分です。
子供の頃はもちろん幽霊なるものをかなり信じてました。いまでも、霊魂的なものは決して笑い飛ばさないで、それなりに霊魂を信じている人の話を単純に否定せず、適当に合わせます。霊魂を軽んじると、たたりがある、こういう思考の回路を、けっして否定したりしません。
むかし、わたくしが教授になってすぐの頃に、研究室でアカムシを大量に使って、唾腺染色体の研究をしたことがありました。とりあえず巨大な染色体とはどんなものかと言うことで、この虫の首を針先で引きちぎって唾腺組織を取り出してなかにある巨大な染色体の生化学、物理化学的な研究をしたものです。アカムシとは昆虫ユスリカの幼虫で、釣りのエサに使われますから多数の虫が容易に手に入りました。微生物ばかりを扱ってきたわたくしにとっては、この染色体の分離は、かなりすさまじい作業に感じたものです。
やはり虫供養をせねばいけないのではないかと、思って、京都のお寺で虫供養をするのはどこかと調べましたら、化野念仏寺にあることがわかりました。それで、ある一日、院生何人かを連れて、でかけていって、心からの供養をいたしました。
虫にも魂があるのなら、その虫の生きた一生を受け止めることも必要なのだろうと思うのです。
アカムシの研究は2,3年で終わりましたが、特になにか虫のたたりがあったようには思えません。
その後、研究室の一角に「まねき猫」と、お賽銭を置いたコーナーを作ったことがあります。これは、事故のような不幸なできことがラボメンバーに起きたりして、伊勢神宮のお祓いを貼っていたのですが、さっぱりいいことがなく、まねき猫のほうがよいだろうという意見でそうしたものです。いつのまにやら、信楽の狸の置物がひとつ脇に置いてありますが、その意味は不明です。

現世に心を残して亡くなった人達がいたら、その心、魂がどのようなものであったのか想像する力を、残って生きている人間は持たねばなりません。
そして、それを理解したと思ったら、なんらかの行動を起こすのでしょうね。仏事はややこしくて、しきたりが多くてたいへんですが、神式のほうはだいぶ楽です。拝めばいいのですから。わたくしも、父母が亡くなって、仏事を催さねばならない立場ですが、出来るだけ自由にとおもっても、なかなかそうはいきません。束縛されます。でもおりおりに父母のことは思いだしてますから、許される程度の不信心さでしょうか。
日本ではいろんな神社がありますが、北野神社を筆頭に、鎮魂目的が多いようです。靖国神社ももちろんそうでしょう。死んだら靖国で会おう、こういう言葉を交わして死んでいった若者が沢山いたことは事実ですから、それを重視すれば、政治家が靖国神社を参拝するのは当然なことになってしまいます。しかし、隣の国から一緒に祭ってある政治家たちについて、猛烈に文句を言われるので、参拝自体が容易なことではなくなってます。

今日はそのことを書きたかったのではなく、この京都大学でも心を残して亡くなられた何人かの人達がわたくしの記憶につよくあります。高橋和己氏は小説家でもあり、たしか文学部の助教授でしたが、大学紛争中に病に倒れて、亡くなりました。誠心をこめて紛争学生達に対応し、知的にも肉体的にも、たいへん苦しい死であったように感じます。それいらい現役の教員で名の通った小説家は居なくなりました。因果関係があるとは考えたくないいですが。わたくしは、高橋和己氏の小説はかなり愛読しました。
退官直前でしたが、沼正作医学部教授も極めて残念な死でした。わたくしは、沼教授はご自身の研究の成果の果実を味わうためにも、本当にもっと生きていたかっただろうと推察します。外国の一部研究者のこころないネガティブキャンペーンの標的にあいましたが、その業績は燦然と光を放っています。沼教授とはなんどか親しくお話ししたこともあり、わたくしの心の中ではなにかのおりに鎮魂的な気持ちになることがあります。
話題にあげにくいのですが、ひとり気になるかたがいます。矢野教授のことです。このかたはかつて東南アジアセンターにおられましたが、セクハラ事件を引き起こして、大学をお辞めになりました。
それまでは、まさに京都および京都大学を代表する文化人でした。ビルマのスーチーさんを教えたこともあるとか。新聞では論壇時評など、社会的にはいろいろな京都や首都圏でのサロン的文化活動のリーダー、政治的にはかなり重要なブレーン的な仕事をされていたようでした。わたくしは、彼のやったセクハラ事件を弁護する気持ちがあってこの文章を書いてるのではありません。彼のやったことは、関係者の証言によると、セクハラ事件としては極めて悪質であり、救いようがありません。
しかし、彼がこの事件の後にどのような生活をして、どのような死を迎えたのか、それとなく聞こえてくる経過は過酷なものであり、深いため息をつかざるをえません。それは、当然の末路だといえる資格を持つのは、被害者以外にはなかなか居ないような気もします。彼が落魄の死を迎えるべきであるとも、周囲の人間の多くは思わなかったかもしれませんが、結果はそうなったのでした。そのような事実を完全に忘れ去っていいのだろうか、とおもいます。
誰かが、彼の魂を鎮めていて欲しい、そういう気持ちを持ちます。被害者は生きているのですから、もっとつらいかもしれません。しかし、死者をさらにむち打つことはないと、わたくしは思います。鎮魂が、ある人のなした生きていたあかしを総体として受け止める行為なのであるのならば、ごく少数のひとのみがそのような行為をする資格をもつのでしょうが。

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