きょうが、建国記念日ということはなかなかどこを見ても出てきません。ほとんどの人は忘れてるのでしょう。建国記念日なんて、米国のように歴史の浅い国にはありそうな名前ですが、日本なら神話の日とか紀元の日とか起源の日とかにすれば良かったのに、とおもいます。そうすれば、日本にも昔々に神話的な時代があったことをおもいおこすのにいい日なのにとおもいます。
研究者が他の研究者と同じ意見しかもたないようでは、なかなか独自の世界を持てません。しかし、独自の意見を主張しても、その意見を認めてもらえなければ、研究者としてはなかなか厳しいことになります。
英語で、so what?という言葉があります。日本語なら、「だからどうだっていうの?」が近いのですか。自説を一生懸命主張したあとで、それを聞いていた人が、それで、どうなの、だから、何をいいたいの、とかコメントを付けたら、あまり相手に強い印象を与えてないわけです。
研究論文などはいくら書いても、それら全体について、so what?と言われてしまうことがあるのです。もちろんそうなっては楽しくないし、生きてる甲斐のないような気分になるのです。
自説といっても、大抵はどこかの誰かが、今か昔に似たような話をしているのが研究の世界にはあるものです。完全に聞いたことがない話しなど言い出せるのは、滅多にないし、そういう幸運な人も少数なのです。
でも多くの研究者は非常に熱心に自説を主張するものです。それは、研究者の性(さが)というか、生きているあかしみたいなものです。
しかし聞く側の立場では、その自説のどこがどう新しいの?と聞くと、たぶん次の10分間はその説明になってしまうので、たいていの人はそういう質問をしません。面白いですね、と無難に言うか、それともきつい人はそれでどうなの?と聞くわけです。ひと言で言ったら、なんなのとか、なにが新しいのとか、話しを簡単にさせたがります。
なかには、そういう話しは聞いたことがない、というような良さそうな反応もあります。しかし、聞いたことがない、とはいうものの、素晴らしいと言ってくれないのですから、評価してくれたかどうかは分かりません。専門家に聞いたら、あんな話し、昔からありますよ、と言われるかもしれません。それで、用心してるのです。
わたくしは、だからどうだっていうの?という言葉が大好きです。自分でもしばしば自分に向けて言ってます。なにかいいアイデアがあったとてしても、数分後には一回目の、だからどうだっていうの?と自問することにしてます。
気分がさっぱりして、頭の中がスッキリします。ディナーのあいだに出てくる、シャーベットを食べているときの気分になります。