きょうは大急ぎで、仕事をすませてから、夕方にアアロン:チカノバさんの講演を聞いて、そのあとにNさんやIさんと一緒に会食をしにいきます。Aaronはイスラエル建国後初めてのイスラエル人のノーベル賞受賞者ですが、極めて気さくなひとというか、わたくしはそういうつきあいしかしていません。同時に受賞した彼の先生のエブラム・ハーシコさんもよく知っていますが、このかたは古武士のようなかたなのでもうすこし礼儀を正してつきあっています。アアロンが昨年来たときに聞いた話しでは、彼を大統領にしようという動きもあったとか。ありそうな話しです。すぐ断ったそうですが。彼は、沖縄のワークショップに来てくれるので、彼が沖縄の現状について、どのような意見をもつか興味があります。
研究をするということは、多くの研究者にとって興味をそそられるからするのであって、興味を持てないけれど、お金のため(月給とか金儲け)に研究に熱中する人は滅多にいません。
熱心に研究をするというのは、やはりなにか体の中に熱心にやりたくなる「要素」がたまってくるのでしょう。この「意欲」というものは、不可解なものでして、ある日突然やる気を見せなかった人が、意欲を燃やしたりするので、意欲をしめさないから、駄目だと決めつけると人を見誤ることがあります。意欲が高ければ、とりあえず、前向きで対応できるのはどこの世界でもおなじでしょうが。
しかし、能力については、生まれつきの面がありますから、意欲のように誰でも持つわけにはいきません。本人がどう思おうと、目利きの人間が見れば、ある程度の確度で判断がおろせるものです。意欲があって、才能があり、そのうえ人柄が良ければ文句ありません。出来たら、そういわれて、人生を送りたいものです。
わたくしがラボの若い人によくいうのは、才能があれば、相当な欠陥人間でも職を得ることができる、しかし才能がほどほどだったら、もしくはあまりなかったら、努力は当然人一倍するとして、さらに人柄が良くなければ職はなかなかえられませんよ、ということです。この人柄がよい、というのを若い男性はうさんくさそうに聞くケースが多いのです。女性はあまりサンプル数がないので、わかりません。
それで、きょうのタイトルですが、人間にはどうも内在する性質として、骨格のような体の基礎、土台になるようなものと、血肉つまり生きている体の状態そのものの、二種類があると考えるとわかりやすいような気がします。骨格というのは、ある程度生まれつきの素因的なものと、だいたい生後10才くらいまでに培われる後天的なものの混合体からなっていると考えたいのです。生まれつき遺伝的素因と10才くらいまでの環境で決まるものと考えます。血肉のほうは10代から死ぬまでの、その場その場での、その時その時の、その人の生きている状態です。
「意欲」は、人間のもつもっとも大切な感情だとおもうのですが、だからというか、骨格系と血肉系との両方から影響を受けるのは当然かもしれません。
こんなことを書いたのも、気になるニュースで、いまどきの日本の高校生の意欲が非常に落ちているのだそうです。それはいったいどこに問題があるのだろうか、と考えてみたのです。識者がいうには、実は既に二分化が起きているので、やる気がないのは、先を読んで意欲的なところから「降りて」しまう高校生が増えて、真ん中が減って、強い意欲ありと意欲なし組がくっきり二色に分かれるのだとかです。
わたくしとしては、生まれつき意欲がないという人達はいない、おもうので、10才までの環境要因からなる影響が大きいのかなとおもいます。それに、いまの社会状況が若者の意欲をそぎがちであると考えたいのです。でなおかつ、意欲の喪失が骨格系(つまり10才までの環境要因)がかなりの原因だとすると、もう間に合わない、too lateつまりこの世代のその面は今後回復が極めて困難かもしれませんという悲観的な意見です。誤った予測だといいのですが。
そんなことを、いまの20代後半の若者とつきあいながら考えます。この世代もすでに二分化が進行してるのかもしれません。ただ、かれらの問題点がなにかというと、わたくしの頭のなかで、うまく整理できてません
着々と、ある(悪い)方向に日本の若者の相当部分が向かっているのかもしれません。そうならば、たいへんまずいのでしょう。いえることは、本来は偏差値の高さとは関係なく、「生きる意欲」が存在するのでしょうが、社会が偏差値ものさしで人を判断するために、わかものがそこに入り込んでしまってでてこれなくなるケースが相当多いのです。