適応能力について

あたたかい天気です。
きょうは昼から宝塚まで出かけて、研究室のH君の結婚式です。
無口で表情の静かな彼ですがきょうはさすがにいつもとは違う姿が見られるでしょう。

それまでにやらなければならないことがいくつかありましたが一つは済んだのでちょっと休憩時間です。間違って、1行書いたところで投稿してしまいました。

人間は社会的動物というあたりまえの事実があります。
人間が社会を作るという面もありますが、人間が社会に適応するという面もあります。
どうも日本では後者のほうが最近は強いのではないかと感じる次第です。
つまり社会の存在がおもたくのしかかっているのではないでしょうか。

いま、フランスではいろいろな若者の社会への働きかけが激しくあるようです。デモとか場合によっては暴動とか、若者の集団行為がニュースでしばしば見られます。
しかし、日本では若者の社会的示威行動など長いこと記憶にありません。

人間が社会を変えていくのだという素朴な信念を集団行動で示すのが、いまも、フランスで起きていることでしょうが、日本の若者はそういうものには興味はあったとしても集団で行動するということはまったく流行らないようです。
どうしてなのでしょうか。

日本では、若者が社会に適応するほうに努力を傾けているのかもしれません。
社会とは適応せねばならぬものだと、いうふうに社会的トレーニングがきつく行われているのかもしれません。

若者が一生懸命働いていながらなにか発言するのを注意深く聞いていると、やはり社会に適応するのに相当苦労していることがわかります。どうしてなのでしょう。

若者が家庭や学校などで育ってきた環境と、日本の普通の社会にはまだ相当なギャップがあるようです。建て前と本音の差以上に、大きい差があるのかもしれません。

そこで、この人間の持っている適応能力です。いまのままの社会に適応するのか、それとも自分の考えに適応するような社会を作ろうとするのか、では天と地くらいに生きるうえでの気構えが違うでしょう。

若い国では、だれもがいまの社会を変えていかねばならないと思うものです。日本は戦争で負けてその時は、新生日本という考えが社会に強くあって、「若い国」という考えはまったく自然に受け止められました。しかし、戦争後60年、特にバブル崩壊後日本が若い国という感覚はまったくなくなりました。経済の苦境に我慢し耐えているうちに、むかしからある日本の良さなどに気がつくようになりました。それ自体はいいことでしょうが、若者はとてもかわいそうな気がします。
就職氷河期をすぎても、フリーターは定職化してしまったし、仕事がないのでどうしょうもなく家にいればニートなどと呼ばれてしまうようになりました。日本の人口の30%くらいが住む方向のない首都圏的な文明が、日本の若者文化の大半を覆ってしまって、若者はいまの社会に適応するか脱落するかどちらかになってしまってるようです。

若者は若いがゆえに適応能力は高いのですが、適応するだけの価値のある社会なのかそれが大変に問題です。
若者の一部を鼓舞していた堀江氏の凋落により、若者に対する強制的な適応化がますます社会を覆うようになるのかもしれません。
検察首脳は額に汗する人が幸せになるような国であるべきとかいってるようですが、それはその通りですが、検察官の給与とそこからでる情報を社会にたれ流すマスコミ人の給与は、額に汗する人達から見たら、驚くほどの上流社会的な額でしょう。

日本人の社会に対する適応能力の高さは素晴らしい一面と、将来的には非常にまずい面と両方あると思うのです。

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