東京の孫たち二人、きょうは保育所の入園式とか。妻は嬉しそうに、東京まで早朝の新幹線で出かけていきました。やはり大きな区切りですから、感慨もあるでしょう。
早いもので、もう一歳半、娘もいよいよ仕事に復帰らしいです。育児中もある程度仕事は続けていたようですが、家で出来る範囲の仕事しかできませんでした。
これからは子供を預けて、外に出てやるようになるのでしょう。あまり仕事を把握してないのですが、雑誌などの記事を請けおって作る仕事をやってるようです。企業での職場経験もあるので、そういうコネもあるのでしょう。
とりあえず、先ほど電話で聞いたら、二人のうちの一人は途中から大泣きしたそうです。一ヶ月は慣れるのに時間がかかるとか。そうでしょう。
おばあちゃん二人が入園式に参加したとか。幸せな時代ですね。
孫たちにも大きな環境変化でしょう。体が小さくて、成長がすこし遅めのAのほうが、きょうはむしろ慣れていたとか。やはり女の子だから、適応能力が高いのかもしれません。男の子はこのあたりで追いつき追い越されるのかな。
わたくしは、昨年書いたかもしれませんが、保育園にも幼稚園に行けませんでした。昭和16年うまれでもちゃんと幼稚園に行ってる人もいますので、わたくしの場合には母親も昭和19年くらいまで働いていたので、父親は海軍だし、お手伝いさんに日中は面倒見られていたようです。東京での爆撃が激しくなり、親戚に連れられて、疎開に行ったのがほぼ四歳と思われますので、1歳半の頃は、たぶんその栃木県からきていたお手伝いのお嬢さんに日中はそだてられていたのでしょう。自分がどんな子だったのか、その方にでもお会いして聞いてみたいのですが、よく泣いたにちがいありません。
というのは、疎開してからもよくくやしくて泣いていたそうです。特に頭をバリカンで刈られるのが嫌いらしくて、理髪店のある国鉄の駅(最近は有名だそうですが、大金というなまえでした)から父の実家の家のあるほぼ4キロの道のりを泣き続けていたそうです。母もまだ東京で働いており、父は出征中ですから、事実上孤児状態だったのでしょう。そういう不安さもあったに違いありません。
幼児の原体験といいますから、こういう幼児時代に集団生活の経験なし、家族的な団らんが希薄だったのは、わたくしに深甚な影響を与えたに違いないはずなのですが、いまとなってはどういう幼児だったのかわたくしに語ってくれる人はいません。
強情でいつまでも悔し泣きをしている子供、というのが唯一わたくしに残った周囲の証言でした。でも、それも環境からくる普通のレスポンスだったのかもしれません。
きょうは、比良山麓の方に来ています。梅もぼちぼち咲き出しましたが、まだまだ本格的ではありません。でもサクランボの花がきれいに咲いてました。
先週からサンシュユがきれいです。それに森の中でしずかに山桜が咲いてました。
お隣のHさんのお話では、昨夜深夜には鹿が二群れ、10匹以上ウロウロしていたとか。幸いわたくしのところの敷地はフェンスがあるので、新芽を食べられる被害はありませんでした。