きょうわたくし、めでたく65才の誕生日になりました。
妻は赤飯を炊くというので、夜は早く帰りましょう。
ラボでは、秘書さんおふたりから、寄せ植えの花を頂きました。憶えていてくれて、嬉しいことです。
娘からも、メールあり、健康に気をつけて、というものでした。
60才還暦の時と違って、65才はどうがんばっても初老、老人見習いみたいなものです。いくら本人が元気とおもっても、周りはそう見ないでしょう。
しかし、国立大学法人の中には65才定年というところも沢山あるので、そうならわたくしはまだもう一年現役期間があるので、そうしょぼくれることもないでしょう。
今年は、論文数も非常に多くなりそうですから、まあプロダクティブなはずなのですが。こころ密かには、まだまだと思ってるのですが、そういう気持ちは露骨には出さないようにしています。
しかし、はっきりしていることは、わたくしが明日死んでもあまり同情されないことです。だいたい、65才あたりに男性にはボーダーがあって、これ以上年をとると、死んでもほとんど早死にという感がありません、死んでも、同情もほとんど無く、残念でしたのことばにも力は入らないものです。
そういうわけですから、ある意味では、これからはおつりの人生なのかもしれません。おつりくらいに思わないと、これからの生活を楽しめないのかもしれません。
たしかに、わたくしもいまは元気そうにしていますが、なにかあればがくっと体調を落としてもおかしくないことはよく分かっており、なるほどこういうことが年をとることなのか、と段々分かってきました。つまり、抵抗力も落ちてますから、急死なんてことも、自分の人生のジエンドの想定内にしておかないといけません。
65才になったからといって、急に周りの見え方が変わるわけではありませんが、でもなにかが違ってきたような気がします。昔なら翁の称号でももらって、係累に対して、好きなこと、勝手なことをいいまくるような生活ができたのかもしれません。
ついでにいわせてもらうと、最近若い教授の先生方が頼りなく感じることが多くなりました。たぶん、民主党シンドロームなのでしょう。岡田さん、前原さんと続きましたからね。彼等の表情と似ている人たちを見るとどうもいけません。しかし、一方で73才のなんだかやたらに生臭く元気のいい人にも絶対なりたくないなと、思うばかりです。
ともあれ、いままでは、一病息災で来ましたが、これからは三病息災くらいの気持ちでやってきたいと思ってます。