畑仕事に疲れて、夕方風呂に入りました。風が強く、新芽をつけたケヤキの枝が折れてしまうのではないかとおもうくらい、はげしく動いて、大きな風の音が鳴り続いています。
ぼんやりと枝の動きを見ながら、風の音を聞いてるうちに、連想ゲームのように宮沢賢治と宮沢賢治を研究していた親戚のTさんを思い出しました。しばらく一緒に住んでいました。彼は、昭和20年代に文理大で宮沢賢治を一生懸命読んでいました。小学生のわたくしに宮沢賢治がいかにえらい人かを熱っぽくしゃべってくれました。練馬の家には色んな親戚の人達がおりおりに下宿してましたが、あの狭い家でどうやって住んでいたのかそんなことも不思議におもえました。あの頃はみんな身を寄せ合って助け合いながら生きていたのにちがいちがいありません。
科学研究は発見とか発明とかいうことばでいろどられがちですが、わたくしたちのような生命科学の研究者というのは「お話し」とても言えるようなものを見つけ出して、それを提示する場合が多いのです。
なにか新しい技術を発明したり、夢にも思わないような発見を経てるのなら、そのような「新しいお話し」は画期的な面白さを含んでいるに違いありません。
しかし、研究の多くは画期的ではありません、細部の世界の、スペシャリストだけが分かるようなものが多いのです。それでも、やってる本人にとっては、かなり面白いものなのです。そのような研究が積み重なって、あるときブレークスルーは起きるものです。
そのような日常的な研究でも「お話し」の要素はひじょうに必要なのです。無味乾燥な事実を報告すればいいというものでないでしょう。どんな小さな発見にも発明にもお話しがあるはずです。
このブログをお読みの方のなかで、小さいお子さんをお持ちで、研究者にでも将来なってもらいたいと、もしも思われるのなら、ぜひとも「お話し」をたくさん聞かせてください。
何度も聞いてるうちに、童話や説話のようなものを子供が自分で話せるようになったらしめたものです。
特に子供が目を輝かせたり、何度も聞きたがるお話は何度でも聞かせてあげることです。繰り返し繰り返し、子守歌のようにお話しを聞かせてください。かちかち山でも桃太郎でも一寸法師でも、寿限無寿限無でもなんでもいいのです。
物語が頭にしっかり入ったら、その物語のどこかの部分について、お子さんに聞いてください。物語の筋が頭に入る訓練が出来て、なおかつそれを人前でいえて、さらにその筋について子供自身の意見をさしはさめるようだったら、もう将来研究者になるための第一関門を突破したといえるでしょう。
わたくしが、いま最後に残った大学院生達とのつきあいでいちばん苦労してるのは、このnarrativeな説話的な能力の欠如なのです。彼等に責任があるのではないでしょう、そういう物語説話能力の低下は日本人全体の問題なのでしょう。
自分の進行中の研究について、沢山のおはなし、素晴らしいものから、がっかりするものまで、たくさん取りそろえられて、その時々の気持ちでどれかについておもしろおかしくお話しが出来る。研究者になるならそのような能力は是非もって欲しいものです。
そのためには、とびきりのお気に入りのお話しを持つ必要があるのです。