子供の日に1才6月になったばかりのこども達を見てるうちに、わたくしにもこんな時期があったという当然のことをおもいました。そして、この子達はどんな年月を送るのかなと、思いました。平和な時代が続いて欲しいと願うのは誰でもそうでしょうが、こういう子供達にもそれなりの時代の荒波はやってくるにちがいありません。
わたくしが生まれた1941年つまり昭和16年の日本人口は7300万人と統計にあります。いまの日本人口の6割ていどですね。この前年の1940年の出生児数は210万人ですから、わたくしたちの年も似たような数でしょう。現在の出生児数はこの約半分です。
2年前の統計によると、この1941年生まれの人達は174万人いるそうです。およそ36万人が既に亡くなってるわけです。63才になった時点で80%以上が存命してるわけですから、戦中、戦後の混乱期を経ている割には高い存命率でしょう。
戦争の爆撃や原爆でしんだ子供達もいたにちがいありません。しかし、飢餓で死んだようなケースはかなり稀だったに違いありません。むしろ最近の自殺率の高さが、われわれの世代の存命数に影響を与えてるかもしれません。もちろん病死がこの死者の多くを占めてるでしょうが。
存命期待率がこのままこの子達にも適用されるのなら、出来ることならもっと高い率が適用されるのなら、まあ幸せで平和な生活がこれから60年も過ごせる国といってもいいのかもしれません。しかし、本当のところはわかりません。
おぞましい国内での事件が毎日報道されますし、常軌を逸したような犯罪を聞きます。大半のひとたちが本来許される存命年数を生きていけるのなら、国として言葉が古いですが、「上等」といえるでしょうか。
言論の自由とか、教育の平等とか、精神面での自由さを強調することはいくらでも出来ますが、とりあえず許された生命の長さを享受できることが、人間として生存していくうえでのいちばん最初にやってくる条件であるにちがいありません。
しかし、そうはいっても子供の環境は決してそう安心、安全というわけではありません。わたくしも就学前に、2回くらい、ゾッとするような危険な目にあったことがあります。一瞬の差で死んでいたかもしれない、というようなことがあった記憶があります。日常生活の中にひそむ事故などの危険です。どんな時代がみても、これからもずっとそのような危険の存在は続くでしょう。子供を持つ、親にかぎらず周辺のおとなや年長者が気を配らねばならぬことです。
一方で、わたくしのように人生でいう晩秋のような時期に来た人間にとっては先をそれなりに読むことも大切なようです。
あと15年も経つと、1941年うまれも半分に減るでしょう。そのなかで元気いっぱいの人はそうはいないでしょう。さらに男女比は男性にとってがっかりするほど、女性の割合が高いのです。そうなれば、いまは元気いっぱいでも、あと15年も経てば、とくに男性の場合、幸運という要素が入ってこないと、誰にも迷惑をかけないで普通に生活できないという厳しい現実もあるようです。
きょうは、娘達が帰り、妻もそれに同行したので、いっぺんに家の中は変わりました。
さいわい、次男がつきあってくれたので、Miho美術館の特別展示を見に行けました。
天気は悪かったですが、展示は期待通りで、満足しました。
日本の素晴らしい美術品が海外で大事にされていること、一人の日本人としてたいへん嬉しくおもいます。
そのあと、信楽のUに寄りました。春齊展の最終日でした。
帰宅後、夕方になってから、次男を送りがてら、京都駅近辺で買い物をして、晩飯を一緒に食べました。終電まで空席なしの表示でした。さすが、連休最終日です。
家に戻り、葛飾北斎の肉筆画についてのテレビ番組をちらちら見ながら、このブログを書いて、無事連休の終わりを感じました。北斎が100まで生きたらどうなったのでしょうかね。