昨日の夜、帰りがけに見るともなく建物の中庭を見ますと、廊下の電灯の光りを受けて、真っ白な花を沢山付けた木が見えました。窓から透かしてしげしげ見たら、山法師(ヤマボウシ)のようでした。去年は気がつきませんでしたが、いまが満開です。木は二本かと思っていたら、今朝もう一度見たら三本ありました。他にも木が沢山あるので、上から見ないと分かりにくいようです。だれが、ここの中庭の樹木を選定したのか知りませんが、平凡でなくて、なかなかいいです。
昨日夜になって、この3月まで秘書をしていたTさんに赤ちゃん誕生とご本人から連絡ありました。可愛い女の子でした。産んだらすぐ、メールが来たのでびっくり。しばらくして、赤ちゃんの写真も見せてもらいました。仕事をきっちりやるTさん、よくこんなにすぐにと、さすがと感心しました。いっぽうで、携帯の威力にも。
格差というのは、主観と客観のうちの主観が相当に影響を及ぼします。わたくしなどは、どうもこの主観の方に関心がむいてしまいます。客観的格差というのは、何を論じても、どうも多くの場合、うさんくさい場合が多いのです。
研究者の世界ではもちろん評価とか色々ありますが、これも客観評価とはあるようでないようなものです。
Natureに論文を10報出した方が、一報も出してないよりは優れた研究者かと言えば、必ずしもそんなことはないでしょう。前者のほうが研究費を貰える可能性が高いことは万人が認めるでしょうが。また、前者のほうが研究者としてはより知られているかもしれません。
優れている研究者というのは、万人が認める人もたまにはいるでしょうが、なかなか評価というのは一致しないものです。わたくしもいままでに、本音の評価なるものを、超がつく、えらい人たちから聞いてますが、その場ではそういう表情はしませんが、驚愕するようなひどい評価を著名研究者にする人達は多いものです。わたくしも、どちらかというと、辛口の評価がついついでてしまう場合が多いのですが。
分野が違えば、何をやったのか知らない場合が多いのですから、そうなると、参考になるのは、なにか賞をもらったとか、教科書やレビューに引用されているとか、有名ジャーナルに重要論文が出ているらしいとか、そんなことで人を判断するものです。しかし、これも熱心になっても、あまり面白くないものです。
でも結局、実際に会ってみて話しをすれば、優れた研究者かどうか自分なりの判断は出来るものです。そのうえでわたくしなどは、その研究者が自分のことをどう思っているか、それをそれとなく引き出すようなことが、年をとってからの楽しみです。割合技巧が高まって、そのあたりの内面をある程度会話から知ることが上手になったような気がします。
そういうことで、結局内面を知れば、ほとんどの優れた研究者は、ブラックアンドホワイトのように、自分を優れているとか劣っているとか、そんなふうに思っていることはほとんどないようです。
研究面でやりたいことがあって、もしくは主張したいことがあって、それをいかにして現実化するかに心を砕いているケースがほとんどでしょう。主観的には、たぶんそれを自分でやりたい、もしくは誰かと協力して一緒にやりたい、そんなことをいつも考えてるはずです。
達成した成果を周知徹底するためには有名ジャーナルに出しておけば、先取権がはっきりする、そんなところでしょう。それ以上でもないし、それ以下でもない。
しかし、これを客観的に見ると、随分異なった側面が沢山出てきます。
そういうわけで、わたくしは格とか格差という問題について、主観的な方にのみ強く興味を持ってしまうのです。
わたくしは大金持ちの友人はいませんが、大金持ちのひとの主観的世界を想像すると、大金持ちになりたくないのです。まあ、やせ我慢にきこえるでしょうがね。