戦闘能力の涵養

このあいだからおりおりにこのブログに書いている論文の進行ですが、かなりいい話し合いがあり、筆頭著者のF君が詳細な対応策をリストアップし、それに基づいて、けさわたくしが文章を書いて、編集者に送りました。3人のレビューアーのコメントはシングルスペースで11ページありましたが、とりあえずの対応プランを書いたのに、それでも6ページにもなりました。よくよくコメントを読めば、建設的な意見が大半ですから、一時の感情にまかせてなにか相手に言ってはいけないケースです。

今日は午後にいま米国西海岸にいるU君が遊びに来るとのことです。

わたくしは、戦闘能力のあるひとがほんとは好きです。若い頃のわたくしは学問的にはいつもたたかっているような錯覚を感じていました。ときたま、本当に怒りまくるようなことが原因で戦闘をしてしまいましたが、そういういくさは負けなかったかもしれませんが、しかし勝ちもしないし、それほどよかったいくさだったかどうか分かりません。しかし、いまでも学問の一部はいくさだとおもっています。ただよわい65才ですから、もうなるべく戦闘はしたくありませんし、そういう機会がないような生活環境を選んでいるつもりです。ただ、わたくしが30才くらいから20年くらいやっていた戦闘経験のノウハウをだれにも伝えないで、消える老兵になるのは残念だなと、思うことは折々あります。
わたくしの周辺には、いくさ好きの若者はまったく見あたりません。まったくというのはちょっと誤りで、二人くらい潜在的能力があるのがいそうですが、でもその潜在能力を使ったことはなさそうです。わたくしの周辺のわかものは基本的には草食動物的で温厚なものです。どう猛な顔つきのはいません。

またオーストラリア戦の話しですが、こんどは試合終了直前のまだ同点の時に、日本にはPKの機会があったはずなのに、そのオーストラリア選手の反則を認めなかった審判は最悪だったという、イタリア紙のコメントの次ぎにFIFAの広報担当が正式にPKを与えるべきだったと言ってるというニュースを見ました。最初の一点はどうも微妙な判定ではあるが、審判の裁量レベルのことであるが、このオーストラリア選手の反則を見逃したのは、非常にまずかったというのが、たぶん正しい審判的な判断のようです。

わたくしは、その瞬間は動転していて、記憶にないのですが、日本選手達は抗議したでしょうか。記憶にありません。しなかったのでしょう。抗議をするとイェローカードになる可能性がありますが、試合の帰趨が決まる反則を黙って見逃すことはいけません。危険をおかしても抗議をするべきだったのではないか。そしたら、負け越し点がはいったかどうか。いまとなっては死んだ子の年を数えるみたいですが。

学問でも、だれか自分に関わる人たちが反則を犯したときには、というか反則を犯したと信ずるにたる状況があるときには、直ちにそれを指摘する必要がある、というのがわたくしの長年の経験から言えることです。セクハラやアカハラ的な行為に対してもです。こわがることはないとおもいます。それで言い合いになる場合がありますが、案外相互理解が進む場合があるのです。自分が間違っている場合があるとしても、なんら問題ありません。間違っていたといえばいいのです。それで相手が居丈だけになっても別にどうこうおもうことはありません。なにごとも指摘することに意味があると思います。
時間が経ってからでは、もう臨場感がないので、なかなか相互理解が進みません。それに、その時に言わなかったことを後悔したあげくの発言は一般にあまり迫力がありません。
自分がこれから言うことは誤りかもしれないが、しかしそれをいま言わないと、もう言う機会がなくなると考える行動が、往々にして戦闘能力の涵養に最も優れたプラクティスだとわたくしはおもいます。学者は口舌の徒ですから、戦闘能力とは口舌能力と置き換えてもらっていいですが。

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