印刷しないジャーナル

昼ごろに理髪店にいき、雑談をしながら、髪の毛を切ってもらいました。店主はかつて高校野球のベストナイン(甲子園での)になったとのこと、そんな偉い人だったのかと、驚きました。
肩をもんでもらってる最中だったのですが、いずまいをたださねばと思ってしまいました。いつまでも肩をもんでくれているので、なんだかありがたいような気がしました。東京六大学で活躍されたとか。息子さんも東京六大学で神宮にでて、いまやお孫さんまで少年野球で活躍とか。いいもんですね。スポーツ一家は。

朝来ていたメールに、米国の学会誌を印刷板のないインターネットでしか読めないジャーナルにしたいとおもうが、あなたの意見はどうだという、アンケートが来ていました。カラーページが必要なときには印刷版があるときは相当な料金を著者が払うが、オンラインのみなら格段に安くなるとのこと。
長い目でみれば、いちぶのジャーナルを除けば印刷版はほとんど無くなるのではないかと、思っています。時代の趨勢でしょう。

たしかに、印刷版への郷愁はありますし、印刷していたらいい点はあります。でも経費が非常にことなります。郵送料もばかになりません。オンラインなら、瞬時に読めますが、印刷物は航空便で無ければスピード的にオンラインにまったく競争できません。natureのような一部の商業誌は生き延びるでしょうが、そのためには現地国での印刷とかページ数を極限まで縮めるとか、大変な商業的努力が必要でしょう。読者が早く読めて、なおかつ、印刷版が重たくならないという不可欠な点をクリアーするのは印刷版ではたいへんです。

この傾向がさらに進んだ、将来の、味気ない可能性を考えてみます。
いまのようないろいろなジャーナルがありますが、それもほとんど全部なくなるかもしれません。学会電子ジャーナルの巨大な国際組織ができて、そこで一括して審査するなどという可能性すらあります。グーグルが出てきてからそんなことを感じるようになりました。

なぜこんなに沢山の学会ジャーナルがあるかといいますと、分野の多さがあるものの、もうひとつはアクセプトされやすさのちがい、権威や歴史やお国柄のちがいが非常に多様だからです。でも多くの著者は本当はそういうことにあまりこだわりたくないのだとおもいます。

大学入試のように偏差値は同じでも入学後の住む場所が違えば、受験する大学の違いは大きくても、オンラインジャーナルはパソコン上で見てしまえばどこに出ようとほとんど変わりがありません。表紙すら見ませんし。

20万台のパソコンを並べているとかいうグーグルのシステムを聞けば、学会ジャーナルなど、どこかで一カ所に情報を蓄積されてもまったくかまわないのかもしれません。

それじゃ、ジャーナルの人気とか、格とか、個性とかが無くなるでしょう。しかしそれだって対応は難しくありません。投稿する時に、自分の論文の水準とか、個性とか(もちろん研究分野も)を記載すればいいでしょう。レフェリーはそれぞれに登録してあれば、ハードウエア的には一カ所とか数カ所に集約されていても、論文審査とかはかなり個性豊かにできるでしょう。
いずれにせよひとたび公表されてしまえば、文献検索すればその論文はデータベース上ではまったく平等に出てくるので、あとは、論文がどんなレベルで審査されたかです。それも著者のの自己申請でいいはずで。「並」くらすか「極上」くらすかで申請されたいたかで当然、審査も難しくして、公表時にそのランクをつければいいでしょう。
世界で100人程度の専門家しか読まなくていい、内容的にも「並」です、こういう自己申請があればそれに沿ったレフェリーが付き、審査され、公表時に、専門家100人、並とランクすればいいでしょう。大発見、すべての科学者が読むに値すると自己申請すれば、そのような観点からしんさされ、公表時にはそのようにランクされればそれでいいじゃないですか。

極上クラスにランクされた論文しか読まない人もいるでしょうが、専門家100人しか興味を持たない論文を熱心に読む人もいるはずです。インターネットは恐ろしいほど平等なのに、印刷版はヘンに士農工商的カースト的なので、こういうものが無くなるのはいいにちがいありません。

これを書き終わって投稿しようと思いましたら、妻からメールがあり、比良のほうに収穫にいったら、沢山とれたとのこと、また森の中の例の樹木にカブトムシの立派なつがいがいたとのことでした。最近は業者みたいな怪しげな人物まで来ていて、一日に相当数の捕獲者がいるのに、よく残っていたものと感心しました。

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