不可解な「やる気」

昨日の続きなのですが、自分探しをやって、decision makingのレベルで自分は間違えたと思って、深く再考、三考、四考したあげくにまた間違えてというか、また間違えたと思って、次なる自分探しのdecision makingに入ってしまう。
最近はこんな若者が多いように見えます。具体的に書くと、誰かわかってしまうし、またわかるとご本人の自分探しに、邪魔が入りそうなので、やめておきますが、世間で言われているエリート大学を卒業しても、やめたほうがいいと傍目に見える自分探しに精出す若者が多いことです。かれらに共通しているのは、自分を社会的存在としてきちんと自己判断する能力が欠けていることで、さらに社会観は大甘で、社会とのかかわりの倫理観が極端に希薄なことも共通しているような気がします。
さすがに自分探しをするだけあって、自分が中心で社会がその周りを回るという、いわゆる天動説(昔よく若者を叱るときにいった言葉ですが)系の考えで追求するという姿勢はあくまで一貫はしているようです。

このあいだ、T大のある先生とはなしていたら、もういまの若い学生さんには普通の意味で科学をする、という感覚を持っている人はほとんどいません、と断言していました。彼がどのような若者たちとつきあっているのかわからないし、またかれが普通の意味での科学をする、という言葉をどう使っているのかよくわかりませんが。でもなんとなくわかったような気がします。
つまり、科学は知識を愛するというのが原点なのですね。たぶん、この原点で共通の感覚を持てないのでしょうか。つまり、職業的科学者になるというのは、大きくくくれば、この知識を愛するという点で、共通感覚を持ってるはずだと。

しかし、最近では生命科学では一攫千金のような話しもごろごろありますし、いろいろ世俗的欲望を満足させてくれると、考えて科学に来る若者が多いのかもしれません。もちろんなかには自分探しの一つで、偏差値が高いのでたまたま吹きだまりのようにきてしまったという若者が多いのかもしれません。

わたくしも実は20年くらい前から、院生レベルで、この新知見を愛する、とことん話し合う、という感覚は弱くなってきて、若者に対する不満の最たるものはこの点でしたから、こういう傾向はずいぶん昔から始まっているのだと思います。

ところで、今日のタイトルですが、こういう指導者と若者の科学に対する感覚の乖離があっても、実際にはいまのわかものはかなりよく働くのです。つまりなんですか、やる気はあるのです。インセンティブは結構たかい若者が多いのです。
このやる気が不可解というのが、たぶんT大の先生の発言の背景にあるのではないかと想像します。いい仕事の結果がでて、手をにぎりあってよかった、よかったと若者にいっても、発見された新知識の面白さに感動するのでなく、有名ジャーナルに発表されたので大満足、ということであれば、この若者はこれからどうなるのだろうと、心配するのも無理はありません。
しかし、そういう知識を愛するのとは無関係にやる気満々で研究室を率いている人達はもうすでに40代を先頭にたくさんおられるというのが、わたくしの赤裸々な実感です。
そんな点をあげつらってもしかたがない、呉越同舟でしょうが、とりあえずやる気があるという点では共通なので、おたがいに不可解な関係でもいいから、とりあえず一緒にできることがあれば一緒にやりましょう、というのがわたくしの正直な気持ちです。
日本の科学の現状はこういうものです。情けないというのは簡単ですが、わたくしは、案外健全でいいのかもしれないと思ってます。一枚岩のイデオロギーの科学は退屈ですから。やる気が不可解というのは、とてもいいことなのかもしれません。

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