昨日と今日、違う論文のファイナル化を一生懸命やりました。
あいた時間であちこち草取り、収穫などをしました。
ブドウはずいぶん食べました。一つだけ分からないことがありました。ブドウの色づきが房の中で不揃いなのです。色が濃い方がもちろん甘いしおいしいのですが、緑でもちょっと色づけばおいしく食べられたのですが、なぜこうも不揃いなのか、店頭に出てるのはあんなにきれいに色づくのに。インターネットでいろいろさがしても分からないのですが、どうも欲張って、房が大きすぎる、房の数というか密度が高すぎるらしいです。いまの房の半分くらいに縮めてなおかつ、数も半分以下にすれば良かったのでしょうか。そういう推測ができました。
あと袋で被せなかったのはてきめんに虫がついたのか、ぶよぶよになり食べられません。どういう虫なのか、これも今後の研究課題です。ブドウ栽培は奥が深そうです。
いまやっと入口にたったところですか。
明日、夜に沖縄に行って、その後東京での用を足す必要があるので、明日の一日はラボを出るまで忙しそうです。
でもまあ充実してるからいいのですが。
北海道、こんかいは一ヶ月に2回行って雰囲気を思いだしました。たぶん、寒さがきらいでなければ過ごしやすいところなのでしょう。つまりだれでもなじめる感じです。沖縄のように、沖縄純血を尊ぶ雰囲気はまったくないのでしょう。たぶん。
それで、わたくしが最初に北海道に行ったのがいつなのかが分かりません。たぶんなにかの学会が初めてでしょう。30才を出た頃か、青函連絡船で渡ったことはすくなくとも2回記憶はあります。有名な映画内田吐夢監督の「飢餓海峡」の後なのか前なのか。後のような気がします。いまインターネットで見たら、1964年の作品なので、わたくしが大学4年か院生1年の頃に見た映画でした。鮮烈な記憶があります。後にきまってました。
それで、間違いなく、一回は青森から京都まで特急白鳥に乗って、一日中日本海をみて帰ってきたのを思いだしました。
そうなると、たぶん生物物理学会でしょうか。あの頃はまだ分子生物学会もないので、生物物理学会が毎年行く学会だったのでしょう。札幌を夕方に汽車に乗って、深夜に函館に着き、寝ぼけた感じで津軽海峡を連絡船で渡って、青森から早朝白鳥に乗ったものでした。誰かと一緒だったような気もするし、座席は一人だったような気もするし、渺々とした記憶のかなたの話しです。そうなると1972年頃か、もう少し前のことか。ちあきなおみの歌が流行ったのはこの旅行の前なのか、後なのか。
たぶん調べれば分かるのでしょうが、分からないままにしておいていっこうにかまいません。青函連絡船、船に乗っておおきな畳のようなところでごろ寝をしたのを思いだします。
恐山のいたことか、今村昇平の日本昆虫記の映画が非常にリアルに感じた時代でしたが、あの頃の北海道は明るくて透き通ったような印象でした、それに対し東北はまだまだ貧しく重い印象があったのですが。青函連絡船はくらい東北からあかるい北海道に行くようなイメージがあったのですが、どうもそれはやはり誤りで北海道も炭坑不況で自衛隊でなんとかしのいでいたような面もあったのでしょう。
青函連絡船もなくなってずいぶんたって、列車を使ってトンネルでいけるのですが、どうもまだ経験がないし、将来にわたってもなかなか機会がないでしょう。。