土着性とイノベーション

ことしの日本シリーズは名古屋と札幌に今晩決まるのでしょうか。
今の日本、真に独創性がありカリスマ性のある、落合監督とか新庄選手がこのようなふたつの都市を舞台に活躍しているのは偶然ではないでしょう。
たとえ、札幌がまけても代わりは福岡ですから、王監督の指導能力が花開いたのも、博多というふうに、いまの日本は東京ではなかなか独創性は生まれないのかもしれません。
まわりの圧力でつぶれるというよりは、東京の町自体が長期的に地味に努力して独創的なものを生み出せない、才能の消費はできても、才能を花開かせる町ではなくなってきたような気がします。
知事さんが頑張っている新大学はどうなのでしょうか、わたくしは悲観的です。既成大学としてはもちろん強力な東大がありますが、どうなのでしょう。これまでの実績と遺産から生まれる威力でやっているだけではないでしょうか。早晩、いまの読売ジャイアンツみたいになる可能性はあるかもしれません。ただ、まあ東大は巨大ですから、そう簡単には沈没はしないでしょう。

わたくしが今日、触れたかったのは、日本の研究や技術開発が特に基礎研究が土着性を失ってきていることに強く不安を感じます。
土着性とはなにかというと、自分の身の回りのことでして、そのことを知らなすぎる、そういうことがわたくしの強く感じる不安です。日本の若者が日本の歴史を知らなすぎる、日本のみならず郷土の歴史も知らなすぎる、こういうことと関係があるかもしれません。
卑近な例で言うと、わたくしの研究室にいる若者たちがこの研究室でなされたいろいろな研究の内容を知らなすぎる、といってもいいかもしれません。公表された論文以外に、発表されなかった中途でおわった、研究などが1980年頃から、博士論文や修士論文にたくさん書いてあるのに、それを知ろうとしない。勉強しようともしない。宝の山なのに。
それなのに、後でやられた同じような研究をした外国や国内の別の研究室の仕事などは真面目に勉強していたりする。こういうことが、最近は多すぎて、わたくしなどももう言う気もなくなり、土着的なものを尊重しない一般的特性としてあきらめの心境です。
博士論文を書く頃になって、始めて研究室にある多くの蓄積や生みだした知識に気がつつけば、かなり良いほうになっています。
なぜ土着性が大切か。それは、あることに興味を持つと、そのことについて、すべての知識をその場で得ることができる。民俗学の聞き書きではないですが、どうしてそのようなものが生まれたのか、ひしひしと分かるはずなのです。
聞き書きに矛盾を感ずれば、複数の人たちに聞いていくと、ある一つの小さな発見のエピソードですら、見る人によって、内容が変わってくることに気がつく。そういう体験を通じて、真の創造性、イノベーションの経過が見えてくるのです。
かつての現場にいるのですから、なんという贅沢な経験でしょう。それなのに、いまや大半の若者はそれらをほとんど利用せずに、現場というか土着にいる最大の利点を利用せずに、何年間も経ってしまうのです。
土着性の欠如は何も若者だけではありません、50才くらいまでの人たちの多くが土着性を失ってきているように思えます。かれらはイノベーションといって、走り回るかもしれませんが、自分の土着性を持ちませんから、根無し草です。一見、繁栄してるようですが、よく聞いてみると外国の直接の受け売りか、外国から一度日本に入って来たのをうけうりか、大差はありません。その外国の仕事にもともと貢献した日本の仕事など、かれら土着性の概念が欠落した人たちにはおよそ関心のないことです。
ひどいときには、隣の研究室が20年前にやった研究が外国で花開いて、それを外国から受け売りしているケースなどもわたくしは知っています。
わたくしは、自分の父母や祖父母さらには彼等が生まれ育った場所での隣人や知人がどんな人たちで、何を考え、何をしてきたかを他人に言えるような人なら、間違いなく、自分の研究でもしっかり土着性をもてる資格があると思っています。そういう資格がなくても自分が創造性を涵養しようという場が、それまで何をやって来たのか、何が起きたのか、自分なりにとことん理解しようとするのなら、まだチャンスがあるでしょう。

真のイノベーションは、そのような土着性のある研究者こそが有資格者としてやって欲しいものです。

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