土着性と創造性、つづき

きのう、きょうと東工大から来訪したSさんがラボの若手と議論するのをそば聞いていました。いろいろ中身のあった議論で、彼の来訪はたいへん有意義でした。

昨日の続きの点ですが、何かを発見したり、何か全く新しい考えに到着する経過というのは、参加者によって考えも感じ方も意外に異なるものです。それこそ、歴史認識の基本中の基本で、歴史を誰がどう書くかでずいぶん異なることがあるのです。誰が何を考えてなにをどうやってその結果、進展が生まれたのか、進展の参加者ですら意見が違うことがあるのですから、その時の現場を歴史で再現するのは必ずしも容易ではないことがあるのです。だからこそ、自分が生活した場での出来事の証言者の意見をきくことが、創造性をまなぶ第一歩だとわたくしは思います。

わたくし自身の体験で言うと、スイスの大学での経験とイギリスのケンブリッジでの体験の二つが、そのような現場と創造性をまなぶうえでもっとも決定的でした。そのまえの大学院時代にいた東大での体験は、どちらかというと、反面的なものでこうしてはいけないとか、なぜこんなにものすごく優秀な人が、科学研究ではさっぱりなのだろうと考える経験が有意義でした。また、政治イデオロギーがどんなに科学研究にマイナスにはたらくかを体験したりするようなことが多くて、どうしたら自分が創造性のある科学をできるのかさっぱり分かりませんでした。
結局、外国ではじめてその土着性のあるというか、現場での体験で、その「なぜ?}という部分がかなり氷解したものでした。結局は、そこで生きている人々の振るまいがちがうのだということがわかり、それではなぜ振る舞いが違うのか、どこがどう違うとどういう結果が生まれてくるのだと、考え始めたわけです。

でも自分で言うのもなんですが、現場にいくまえにたくさんのなぜ、なぜ、を日本で繰り返していたので、海外ですぐ短期間でいろんなことがわかったのであって、前もっての「なぜ、なぜ」がなかったら、ほとんど何も得るものは無かったたかもしれません。
やはり、疑問無きところ進歩もイノベーションも生まれないでしょう。

現場に行って始めて分かることがあるのですが、その現場を価値あるものにするかどうかは、すべて本人次第というか、一人一人の問題でしょう。

わたくしは、25才から30才になるまでのその間の色んな体験や考えの変遷をそのご今に至るまでなんどもなんども反芻して生きてきたような気がします。
ですから、30年前に思ったことがずいぶんいまは深められていると思っています。
だから、生きていく価値があるのだと思っています。

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