ここのところ一ヶ月で、博士の学位の審査会をすませたのが、研究室内で3人おります。ちょっとみな5年の通常年限から遅れているのですが、とりあえず取れればいいでしょう。まあ無事に学位をとれることになり、同慶のいたりです。
足の裏についた米粒なんて比喩されますが、なかなかとりにくいもののようです。こんなに苦労しなくてもいいはずなのですが、かなり苦労するケースが最近は増えました。なぜなのかはわかりません。筆頭著者というのですが、そういう論文が一報あればいいというのが、わたくしの属している研究科のルールですが、なかなかその一報が完成しないのです。というか、完成したと思っても、論文のレフェリーがいろいろ言ってくるので、それに対応してると、半年くらいすぐたちます。
このブログで何度か触れた、F君のもとうとう数日前に論文がアクセプトされつつある状態になりました。持って回った言い方をするのも、通った段階がいくつかあって、はっきり印刷中というか最終OKになるのには原稿以外にも色んな書類を送る必要があるのです。たとえば、著作権の移転とか、金銭的な利害があるかとか、そういう類のものです。たとえば、学校の入試が受かっても、身体検査を受けねばならない、そんな感じです。F君のは難しいジャーナルでしたが、随分優れた論文レフェリーがついて、非常によいコメントを出してもらいました。いろいろ実験をするはめにはなりましたが、その結果とてもきちんとした論文になりました。彼にとってもわたくしにとってもたいへんいい経験でした。かれのも遅まきながら博士学位論文となります。
さらにまもなく新たに投稿するK君のも、博士学位の基礎論文となるので、気をゆるめることができません。
その次の論文もこれまた博士学位の基礎論文となるので、いったいこの状態がこれからどれくらい続くのか、わたくしの晩年にやって来た、思いもよらない苦行となっています。ただ、これも自業自得ですから、だれにも文句を言えません。自分で自分にお疲れさまと毎日言っています。これがわたくしの生活のいちばんつらい部分となっています。
それで、きょう昼時に石垣にあった、11月祭用の立て看板をみたら、あふれる才能の無駄遣い(正確にはちょっと違ったかも)とありました。おもわず、そんなあふれる才能なんていえる京大生は千人にひとりもいるんか、と内心毒づきました。よく、恥ずかしくもなく、とおもいますが、こんなのも若さのひとつの特徴でしょう。
世の中では、まだ高校生の補講問題が大きく記事になっていますが、補講70時間とか50時間とか、政府与党幹部がきめるとかあって、驚きました。政治家がそんなことを決めるのに影響力があるなんて、非常におかしいではないですか。わたくしには、まったくわからない、世の中の流れです。他の高校生に不平等だから、不公平感がたかまるから、補講をやれとかいう新聞などマスコミの論調も、わたくしにはまったくわからない理屈です。この補講は受ける必要のない罰を未受講の高校生に与えるという点でまた政治家が介入したという二点で、わたくしには禍根を残すように見えます。しかし、いっぽうで世の中せこい感じで教育をやっている高校がたくさんあることはよくわかりました。しかし、全体として、頭のてっぺんからつま先まで、つまらない話しですね。高校生が可哀相な気はします。いまの高校は外部からみたら秘境のようだと、先日かきましたがその感が深まります。