京都駅舎、はまると淫する

きょうは夕方から東京での学術会議での委員会なので、午前中はラボに出かけました。きょうは、一日この先座ることになるので、正午過ぎにラボを出てからは、東山三条まで歩きました。どこから出てきたのかと思う数多の観光バスがどの道路にもひしめいています。紅葉シーズン真っ盛りです。朝、車でちらりと見た、坂本の紅葉もかなりいけるようで、観光バスも観光客も朝9時台でもたくさんいました。
京都のみならず周辺の観光地もこの時期は混むのでしょう。人気も昔よりずっとあるかんじです。
数日前の歳時記を見ていたら、京都駅舎が昭和25年に全焼したとありました。大正天皇の即位記念とかで、ルネサンス調の美しい建物だったらしいです。わたくしが始めて京都にやってきたのは中学三年ですから、昭和31年ですか、当時のみすぼらしい駅舎をはっきり憶えていますから、全焼の後の痛手だったのでしょう。そうだったのか、その古い駅舎を見たかったな、と思いました。
いまの京都駅の建物は割合評判いいですね。外国人も、立派だなというのだから、大きさに関しては文句なしでしょう。わたくしも嫌いではありませんが、日曜午後あたりのあの雑踏には参ります。

ラボの学生さんに、きみあんまりその実験に淫しては駄目だよ、というと、ヘンな顔をいままでに何度もされてます。字で見ればわかっても音声では伝わりにくいみたいです。
そこで淫してではなくて、そんなにはまってはだめだよ、というとこれは一発で分かるみたいです。でも、このはまるというのはどうも使いにくい。はまるは、イメージ的に、否定的な意味がそれほど無い感じなのですね。それに、受け身的な状態ですね、それに対して、淫するほうはご本人の意志のもとにやっているのだが、周りから見れば止めたら、という感じで言えるのです。はまるというのは、ぴったり嵌るという、モノ的な嵌るのと、はまるつまり相手の思惑通りになってしまう、というので、なんだか非常に受動的、受け身なのですね。
学生さんがいつの間にやら、指示されたこととはぜんぜん関係ないことをいつまでもいつまでもやってるのを咎めるのには、はまるというのは意味が通じるようでほんとのところが伝わらない。そんな感じがあるのです。もちろん、学生から見れば、先生の言うとおりにやってたら、こんなことになってしまった、指導者にはめられた騙されたと、おもうこともしばしばあるようです。
このあたりに、意志の疎通が微妙にうまくいかないときの人情の面白みがありますね。意志の疎通の齟齬は、それなりの意味もあるのです。意外に、相手の考えることがわからない。
いまの状態は、はまってるのか、淫してるのか、どっちなのですか、と今度聞いてみようか思います。
埋没というのも使いましたが最近は、いつまでも埋没してないで、なんとか脱出しようよ、などとあまり使いません。学生気質が変わってきたのでしょう。

いま会議直前に、このブログも投稿するところです。

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