単年度予算制の弊害、基礎研究者は社会のペット

すこしまえにマスコミのかたから研究費の不正経理についての取材を受けたときに、印象として大学や研究所のことをとてもよく知っていると感心したものです。しかし、会話の最後のところで、「予算の単年度性がいろいろな問題を引き起こしがちなのです」、と申しあげたら、怪訝な顔をされました。「でも研究費などは3年とか5年とかそういう期間で先生も頂いているのではないですか」、と聞かれました。「そうなのですが、しかし、予算の単年度性はしっかり残っていて、毎年、毎年決算して報告して、かたちの上では毎年審査されて、そして沢山の書類を作らねばならないのですよ、それでまったく必要の無い労力が大量に発生し、いっぽうで不正の温床とでもいえる状況が起きるのですよ」、と申しあげましたが結局時間切れでなぜそうなのか十分な説明が出来ませんでした。

春3月になると毎年このことを感じます。いったいいつになったら、予算の単年度性が研究費の世界から消えるのか。分かっちゃいるけれどやめられないのか、それとも、研究者として生活してみなければこの大変さは理解されないのかもしれないので、何も知らない行政側は改善する気はないのか。
単年度予算であると、毎年3月になると、ことしの研究成果報告を反省文も含めてまとめて、来年の研究計画も具体的に研究のやりかたなど含めて、なんらかの抱負とともに書かねばなりません。予算の使い方もきちんと毎年3月末にはすませて、来年の予算計画もださねばなりません。5年の研究費をもらえば5回繰りかえせねばなりません。研究費が年間50万円だろうが、500万だろうが5千万円だろうが、一件あたりの仕事量はそれほど違いません。零細な研究費を三つ集めた若手の研究者は、1億円ひとつの研究者の年度末よりも忙しい、ということがありうるのです。これらの書類を誰が見るのでしょうか。予算や経理担当者が見るのか、審査員が見るのか、かたちの上では関係者が誰でも見られるしくみになっていますから、神経質なひとはビクビクしています。わたくしのような古ダヌキは、まあ言わぬが花でしょうか。
大学の改革が進まないのは、この単年度予算に相当な原因があると、わたくしはにらんでいます。
年度の予算消化、年度毎の報告書、計画書の作成に研究室の主宰者は忙しすぎるので、若手といっても40代なかばまでの研究者を助手とか、助教授で手元におきたがるのです。これが後ろ向きの理由以外のなにものでもないことは言うまでもありません。
いわゆる講座制の弊害とかいわれますが、大学がいつまでも良くならないのは、こういうヘビーな事務量をしのぐための組織作りが肉から骨までしっかりとあるからです。いまの教授たちが保守的と外から見える、一つの理由は間違いなく、毎年やってくる年中行事でアップアップしているからです。装置機械なども期間内に納入される見込みがなければ、購入すらできない事態となるのです。不正経理の温床は年度末での会計処理にあります。大学ぐるみでいろんなことをやってるのです。
この単年度予算の仕事量の多さを減らすことこそが「改革」であるにちがいありません。それに、研究費をもらっても、年度末までにきっちり予算を消化することにそわそわしてるようでは、いい研究などできにくいのでしょう。
研究費だけでなく、すべてに渡って、大学や研究所の単年度予算の原理は貫徹されてますので、年度を越えて研究者の出張費用を支払うのはきわめて困難です。招待状に、ともあれ3月31日中に帰国してくださいね、もしも4月1日になってしまうと、旅費を全額返還してもらいますよなどと、外国人研究者への招待状にかならず書きなさいなどと、事務方に指導されたら、わたくしなどはその事務方を一喝しますが(といっても最後は従わざるをえないのですが)、わかいおぼこい研究者などはそういうことを海外の大先生に言わねばならぬだけで、人生無情を感じたりするものです。

日本は、ほんとに、もっとリラックスした良い研究環境を作らねばなりません。5年間の研究費があたったら、期間内に一回だけチェックとレビューがあればいいとおもうのです。3年間なら、いちどもやらなくて最終年度にやればいいと思うのです。しかし、やるからにはきっちりやって、良ければ次ぎにつながるし、駄目ならお引き取りを願う、こういう論理がはっきり表に出て欲しいものです。
わたくしは、基礎研究者は社会の良きペットという、説をこれから広めようと思っています。つまり愛され親しまれる研究者(ペット)はリラックスした環境から生まれるのです。もちろん、しつけの悪いペットはいけませんし、いっぽうでペットに過度の要求をしてもいけません。

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