きょうは、久しぶりにおちついてラボで新しい論文の下書きでも始めようかとおもってきたのですが、駄目でした。
例のラボの引っ越しの詳細な見積もりなどを説明を受け、見なければならなかったのですが、それに付随して、新しい事態が発生して、これは、と絶句するような状況になりました。
いまは微妙な状態なのでこれ以上は何も書けないのですが、うーん、と深く絶句するような状態です。
まあ、しかしわたくしももうすぐ66才ですし、たいていのことには驚いてはいけない
年齢なので、なるべき前向きで対応しようとおもっています。
わたくし、五木寛之さんの書いたものはかなり好きだと、なんべんかこのブログでもふれています。
彼がかいたことで最近強く印象に残ったことばは、仏教の教えの基本はこの世で生きる人生とはうまくいかないものなのだ、というものでした。おもったようにはいかない、それが人生なのだというものです。それが、人生に対する仏教の見方をひとことで説明するのだといわれると、わたくしなどはあまりに分かりやすいので、そういうふうにこれから仏教を理解していっていいのかなと、おもってしまうのです。
わたくし自身は、人生とはかならずしもうまくいかないとおもわないし、うまくいかない部分とうまくいってるとおもわれる部分を折衷的にして現実的にいきてしまう、まあ俗物なのでしょう。
でも人生の基本型はうまくいかないのだ、というふうにひと言でいわれてしまうと、そうなのかもしれないと思ったりします。
死が人生の基本型ならそう考えるべきなのかもしれません。
どんな栄華を極めた権力者も世紀の天才も死なねばなりません。この一点だけでも人生とはうまくいかないものなのだ、と結論されてもしかたないのかもしれません。
これまでに、両親と妻の両親を見送りましたが、やはり死は本人にとって相当に寂しい出来事であるに違いないと実感します。
きょうは、なんではなしがこういう風に飛んだのか自分でもわかりませんが、たぶんこの引っ越し状況の余波でしょう。無常ということばわたくしは日常生活で決して使いませんが、こういうときは、そんな気分になります。
無常よりは無情なのかもしれませんが。