きょうは昼飯にK君とでかけ、そのあと理髪に行きました。
久しぶりに野球漬けになるようなはなしを沢山聞かされました。
3時頃にRさんが息子さんと現れるはずです。4時からセミナーがあります。
今回は彼は東京でのシンポジウムのあとに息子さんと京都を旅行しているのです。
息子さんと一緒と言うことで、通常なら、ラボにきていろいろはなしをする時間は今日は割愛して、あしたにでもわたくしの家に来てもらうことにしています。
Rさんとのつきあいは非常にながい。
Rさんの先生はBHさんといいまして米国での遺伝子バイオテクノロジーの草分けのひとですが、わたくしがスイスに留学していたときにBH先生は客員教授のようなかたちで米国からきておりました。わたくしはまだ学生のようなアシスタントでしたが、それなりにかわいがってもらった記憶があります。
そういうわけで、Rさんと始めて会ったときには、BH先生のシアトルでの研究室だったのだと思います。わたくしが分裂酵母を始めてすぐでしたが、BH先生も転写制御の面で興味をもっており、出芽酵母よりもより高等動物の転写制御に似ているので面白いとかそんなはなしをしてくれました。その仕事をしたのが当時院生だったRさんだったのです。
Rさん自身は細胞周期に興味を持っており、学位をとったらすぐ英国の当時サセックス大学にいたNさんのラボにポスドクで行ったわけです。Rさんは当時まだ非常に数少なかった遺伝子DNAというか組み換えDNAを操作できる研究者として、細胞周期に非常な意欲を燃やしたわけでした。
Nさんはノーベル賞をとりましたが、やはりその主要部分はRさんの貢献であることは客観的にみてそういいたいのですが、Rさんんもそこまですごい仕事になるとは思っていなかったかもしれません。わたくしは彼が遺伝子クローニングを始めるときに、人間関係のややこしさを気にしないで、とりあえず工夫してみずからやったらどうかなどと、エジンバラのパブで加勢したものです。それもやはり、BH先生以来のつきあいから来る、相互の信頼みたいなものがあったのだと思います。研究の世界では、日本で言えば古い中世の時代にさかのぼっても紹介状を渡してこの人物は信用できるとした、そのような風習がごく最近までは残っていました。航空便でも往復2週間はかかってしまう、ファックスももちろんメールもない時代では、そういう類の紹介状を持参した、人と人の交流があったものです。
わたくしとNさんのつきあいも考えてみると、シアトルでの始めの出会いがあったわけですが、それもLHさんかBHさんの紹介での出会いだったのだと思います。
Rさんはもうながいこと、サンディエゴにいていろんな立派な研究をしてきました。いちど彼が一年間サバティカルでわたくしのところで客員研究者として滞在したいということで、申請したのが駄目だったのは残念でした。かれを落選させたのはいったいどういう理由だったのかと、思うことがあります。
それはともあれ、Rさんのところには沢山の日本人が出かけていってポスドクをやっています。わたくしのところからもS君たち二人が行きました。非常に面倒見がいい、Rさんなので、出身者はみなさんしっかりした職についてよくやっています。
研究者の系譜というのはおどろくほど長く続くもので、系譜の特徴や多様性は研究者の世界の豊かさを支える一番大切なものです。