きょうは東京で会議がありました。学術会議のわりあい高尚な話題の会議でわたくしはそれなりに楽しんでいます。
そこで考えを触発されたのですが、研究者の意欲についてすこしメモしておきます。
どんな職業でも、そもそも生きるということ自体が意欲と密接にむすびついています。しかし、きょうはそこまで根源的に遡ることは止めておきます。
研究者(科学者と置き換えてけっこうです)になってみたい、という意欲を持った少年少女は何才くらいでそう思うのでしょうか。たぶん小学校の5年生くらいならもういると思います。その理由は千差万別かもしれません。でも自分が研究者に向いてるかどうかは分かりません。そもそも研究者になれるかどうかも分かりません。それで、意欲もなかなか高まりにくいかもしれません。野球を目指すのなら、いくらでも意欲が高まる道が開けていますが、研究者になる道はだいぶ先で始めてはっきりしてきます。しかし、そこまでたどり着くには、研究者になる資格試験とはおよそ関係のない大学や大学院の入学試験などを突破しなければいけません。それでもまあ運良くそこも突破して意欲を高めて大学院に行くのですが、ここがなんといいましょうか、なかなか思いもよらないほどの忍耐の期間になってしまう可能性が高いのです。しかし、そこも運良くというか、忍耐強く突破して博士の学位をとったとします。しかし、それからも意欲をそぐようなことが沢山あります。ポスドク、二番目のポスドク、若い独立研究者、研究室の主宰者というのが運良くというか順調な場合の経歴のケースでしょうが、これらの期間をその立場にふさわしい意欲を持ち続けていくのはなかなかたいへんです。わたくしも二三度危機がありました。
もしも、どこかで意欲を失ってしまったら、もしくは意欲の相当部分を失ったらどうでしょうか。経歴の早い時点なら傷は浅く転身は十分に可能でしょうが、時間が経てばなかなか転身は困難です。しかし、本気になれば何才でも転身は可能です。論より証拠をちゃんと出すこともできます。
意欲とはいったい何なのだろうか、とおもいます。わたくしにとって人生最大の謎の一つです。岡本太郎氏は「芸術は爆発だ!」というセリフで一般の人々の間に強い記憶が残っています。わたくしは、「科学は爆発だ!」とは火山学者でないのでいえませんが、「科学は好奇心だ!」というくらいの陳腐なセリフはいえそうです。「科学は意欲だ!」と言ったほうがいいのかもしれません。それとも「科学はわたくししか知らないことだ!」とでも言ったほうが、科学の真骨頂を伝えるのにいいのかもしれません。
問題は、研究者は意欲を持つために、急に下世話になりますが、金銭的な収入(サラリー)、研究費、設備、それに成果にふさわしい地位とか名誉などというどうでもいいようなものまでごったにして「意欲の源」とするのです。それで年を経た研究者の意欲の相手をするのは、ほんとに厄介です。
そういうわけで、小学校5年生の時に研究者(科学者)になりたいと思ったときの純粋な「意欲」を持ち続けることが可能な環境こそが研究者のユートピアというかパラダイスなのでしょう。ですから、「夢想すること」が「現実を忘れるというか、気にしない」ことが科学者にとっていちばんたいせつなのではないか、こんな風に考えてしまうのです。
ところで今日は行きの湖西線と新幹線までも遅れて(数分でしたが)、帰りは湖西線が強風とかで15分ほど遅れました。
遅れを考慮にいれないと、生活出来ない感があります。