ブログの社会の公器としての本来の利用

昨夜は結局台風的な強い風も雨もなにもないで、朝起床して、外をみたら比良山が青空の下に雲をまとってみえました。
日中も曇天ではありましたが、風もたいして強くなく、結局夕方に近くなってから強風が吹きだしましたがその頃には台風4号は関東の南にあったので、どういう関連のある風か分かりません。
滋賀県北にいるとどうも台風の推移はよくわからない、という感じでした。

猿の被害はほぼ原因が推測されましたので、ネットの隙間をうめるべく妻にも手伝ってもらって補修しました。これで猿が想像外の乱暴をしないかぎり大丈夫なはずです。しかし、楽観はまったくしておりません。トウモロコシはどうしても口の中に入ってこないかもしれません。

ズッキーニはどんどん大きくなって、味も小さいときと同じなので、今年の成功作物となりました。
Fさんにいただいたイタリアントマトも細々としていたのが大きくなって面白いかたちをした実もついてますからこれからが楽しみです。

ここのところ、研究倫理について意見を聞かれることが多いです。ラボにおいでになって意見をきかれたり、講演会でも意見を開陳することが多くなりました。

わたくしは、疑いをかけられた研究者は全力をつくしてその疑いをはらす義務というか権利があると思っています。つまり、疑わしきは罰せずが法曹の世界なら、研究の世界は疑わしいは罰されてもしかたがないので、そうならないように疑いをかけられた当事者は全力で疑いを晴らさねばなりません。
灰色の疑いをもとに所属する組織から懲戒をうけてもしかたがありません。つまり、研究上の不正や倫理違反は本人が肯定しない限り、100%確実な証拠を得るのは難しいのです。
研究者の「資格」というか実績などはほんとにあやふやで、抽象的なものです。100メートルを9秒8ではしる能力のように厳然たる「記録」があるわけではありません。論文という、紙にかいたものと周辺の「評判」だけです。
ですから、所属する組織が、疑わしけれそれにもとづいて研究者の処分をすることはありうるのです。研究者の職の「安定感」なんていうのはその程度のものです。というか、わたくしはずっとそう思ってきました。ちょっと職というものをお借りしてる状態なのだと思っています。

そういう意味で、こういうブログなどはたいへん意義ある存在だと思います。
研究者がブログを有効に利用して世間の大きな関心をひいたケースは知りません。しかしブログは実に簡単に容易に利用できるツールです。

わたくしがこのブログについて要する費用は月間500円です。本来は無料でいいはずですが、いちおう大きなメモリー容量も可能なふうにしてるだけです。実に安価な宣伝媒体です。なにか世間に発信したいことがあれば公序良俗に反するような記述をしないかぎり、何を書こうと勝手なわけです。
自分の言いたい意見を書いて誰かが読んでくれる、もしも危機に陥ったらどこのだれもどこの組織も自分を助けてくれなかったら、こういう媒体はたぶん一番利用したくなるもののはずです。
わたくしも、何度も申し上げてるとおり、自分の意見を発信したいと思ったから、はじめたわけなのです。
しかし、まだの危機におちた研究者個人がブログをもちいて自己弁護といううか自己説明をしているケースを見たことがありません。

色んな意味で、社会の公器としてのブログが、その本来の機能が十分に利用されてない感じをもちます。

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