疲れたオーストラリア戦、日高敏隆さん、ヒトのための美学、陛下のお喜び

昨夜のオーストラリア戦、川口選手の鬼神的な働きで最初のふたりのPKをセーブして勝利に導かれました。延長の30分も含めて、120分の試合、見ていて疲れました。しかし、終わりよければすべて良し、でした。オシム監督がPK戦は見ない(たぶん心臓にも良くないはず、監督は自分がみると勝つ確率が低いといってました)という「奇癖」も勝てばご愛敬でしょうか。これで、日本チームはノルマは達成しました。後は、のびのびとやって欲しいな、とおもいます。

日高敏隆さんがヒトと人の区別などほんらいは必要ないはずなのに、という論旨で面白いエッセーを書いていました。どこの新聞か忘れました。すみません。
ヒトと書くときには学名のホモサピエンスが背景にあり、人のときはhumanつまり人ですね、こういう違いなのでしょうが、どこまで区別しきれるかといわれたら、わたくしも自信ありません。
そういえば、思いだしました。
このあいだインタビューを受けたときにわたくしは高校三年生のときには理系にいくか、文系にいくか、ひどく迷って、文系だったら哲学か美学のようなものをやりたいと思っていたと、いったら、どうも違ってきこえたらしく、美術をやりたいとゲラに書いてありました。美学なんて、死語かもしれません。
いまそんな学問やってますという若者がいるのかどうかしりませんが、日高さん的な問題意識でいえば、美学なんかも人的な学問だがこれをヒト的にやらねばならない、ということになるのでしょうか。
そうなら、わたくしも美学をヒト的にやるのだったら、あの高校三年の時に、迷うことなく、美学をやったかもしれないなあ、などと思ってしまいました。
いや、いまからでも遅くない、66才の手習いで、ヒト的な美学をやってみるか、そうならサルの美学や、ハエや線虫の美学もやらないといかんかな、と考えが拡がってきました。昨日昼に長靴で踏みつぶそうとした、ムカデのための美学くらいから始めるかなどと、考えるとだんだん愉快になってきました。

今週のNature誌にでていた、天皇陛下のエッセーを興味深く読みました。陛下がリンネ生誕、300年を記念した行事の一つとして英国でのリンネ協会でのご講演の要旨をNatureが載せたものでした。
陛下のエッセーは日本にリンネの分類学がどのように入ってきたかを歴史的に説明したものです。長崎の出島にやって来た欧州の生物学者が当時の学問に興味をもつ日本人といかに交際したか、を大変興味深いエピソードをいくつか挙げておられます。
しかし、やはりシーボルト以降にリンネ的な分類の考え(つまりしっかり分類して学名をつけること)は日本に広く行き渡ったというお考えも示しています。随所に陛下の人々にたいする暖かいまなざしが見られ、特に日本で銀杏の精子が発見されるいきさつの説明など、とてもすばらしいエッセーでした。
陛下はリンネ的な分類は、日本におけるほぼすべての生物でおこなわれたが、魚はいまだに十分ではないことを指摘しています。陛下のご研究のハゼも実は学名による分類がまだ十分に行われていないとのことです。
陛下はいまから40年ほど前にハゼの分類を感覚突起の配置の違いにもとづいて行い論文として発表されました。
当時はだれもそのような方法で分類している研究者はいなかったので、ある人達は陛下の分類方法に相当な疑いを持ったということです。
正確なを期して、陛下の英文のままに以下に掲げておきます。

And some people had considerable doubts about my classification.

しかしながら、陛下の御説明によりますと、感覚器の配置はいまでは重要な分類法として認知されているそうです。そこで陛下は以下のように述べておられます。

I am glad that I have been able to make some contribution in this field.

ここで陛下がお書きになられていることが、まさに研究者のひとりひとりが願っていることでして、その願いが達成されたときに得る喜びこそがまさに研究者であることの喜びなのだとおもいます。陛下の率直なお言葉は、陛下の講演をお聞きになられたすべての人達に陛下が研究者であるという、日本国民なら誰もが知っている事実を認識していただけたものとおもいます。

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