素晴らしい紅葉の眺めです。太陽光も日中はつよくて暖かい日でした。
明日は、米国からの一時帰国のKさんがご家族とこの比良のほうにやってきます。
またラボからも数人、里芋を食べに来ます。
それで久しぶりに庭を掃除しました。来客があると庭がきれいになるので、折々に人を呼ばねばなりません。里芋とは関西ではあまりいわないのでしょうか、K君は里芋とはなんですかと聞くので、小芋だよ、といったら分かったみたいです。でも葉が大きいということはわかってたのかあやしい感じでした。子供の時に雨が降ると傘の代わりにしたものです。また、葉にたまった水滴を水として飲んだ記憶があります。
最近英語の文章をおりおりに校閲に出しています。外国の会社ですが、ホームページは日本語で、支払いもしやすく対応も値段次第で早くなり、ビジネスとしてなかなかのものです。
それほど値段も高くないので、費用効果が高いとの判断です。
やはりわたくしの英語を書く能力などたいしたことないので、校閲が帰ってくるとなるほどと、感心することが多いです。
今日の話題はそういうことでなくて、国のちがう二社を試してみての経験で考えさせられたことを書いてみたいとおもいます。
一つのほうは、英語の直しは最低限と思われる直し方で、たぶん気に入らないような文章も沢山あるのでしょうが、一見それらはほとんど最低限でしかいじられていません。
でも、校正後には全体的にスカッとした感じで格段によくなった印象があります。
もう一つのほうは、実に丁寧になおしてくれます、ちょっとそこまで直さなくてもと思うくらい直します。問題は、ときおりにまったく違った意味で直してあることです。ぼんやり見ていると気がつかないことがあり、正反対の意味になっており、慌てることがあります。直し方をみると、なるほどわたくしの英語のあいまいさを鋭く衝いてきて、これはどういう意味なのか、ちゃんとしてください、と言ってきます。または、こう直したが本当にあなたの意味なのかチェックしなさいと丁寧なんですね。ただ校閲後の対応に時間がかかります。
かなり長い原稿を頼んだのですが、三カ所で校閲側は当然と直したところが、意味がガラッと変わっていまして、これには慌てました。つまり黙って変更していて、それで意味が著しく違うのは困ります。ほぼ1万語のなかの3-10語の変更ですが、でも見方によれば致命的なエラーとも言えます。もちろん校閲側が悪いとは言えなくて、わたくしの英語能力の低さが誤解を招いたのです。
元の文章なら文脈から正しい意味を専門家なら読み取れたはずです。しかし、直した英語は例え専門家でも誤って校閲したとは夢にも思わないでしょうから、完全に誤った文章がそのまま一人歩きするでしょう。ですから、かなりまずい事態が起こりえます。
つまり、最初の校閲者はプロ的なのだと思います、貧しい英語でも専門家同志なら文脈を読み取れるはずで、だからそれらはほっておいて、どうしょうもない誤りだけを直す、明解な誤りは安心してなおす、それ以外は極力文章は残す、そうしないと、誤った校正をする可能性が高まる。そして、これで充分という態度なのでしょう。
後の校閲者は博士を取得している専門家なですが、それでなおかつ、文章には相当な自信がおありなのでしょうが、プロとは言えないかもしれません。たとえ全体の0.1%以下の校閲誤りでも、非常にまずいことが起こりうる、という危険性をたぶんあまり感じてないのかもしれません。
こんな事を今日かいたのも、このあいだから苦労して書いた例の締め切りを大幅に遅れた原稿を送ったのですが、本の編集をしている研究者から返事があって、とても面白くよんだ、誰にでも理解のできるほんとに分かりやすいのを書いてくれてありがとう、とかいうことなのです。ホッとしたいっぽうで、これはまだ英語の校閲もとおしていないので、このひとは文意を理解してくれたのだなとおもいました。つまり専門家は専門家の英語文章をよく理解でき、また日本人は日本人の書いた英語がよく分かるものです。ことばなんて、そんなものではないでしょうか。分かるあいだでは分かる、でも分かりにくい関係ではどんな風に書いてもなかなか分からない、そういうことなのではないでしょうか。