人は実際の肉体としての生命を終わる前に徐々にもしくは急速にいろいろな事を終わらせていくのだな、とおもいます。わたくしの場合、大学院生を研究室のなかで教育するというのか育てる仕事がそろそろ終わりにきているようです。新規の学生はもちろん取っていませんが、昨年の暮れからこの春にかけて、研究室のメンバーのうち四人も博士の学位を取りますので、そのような感が深くなります。あと残っているのは誰かと聞かれれば、ものおぼえの激しくなったわたくしですら、ごくごくわずかな数だということはすぐわかります。
しかし、このあいだあった沖縄での研究評価の委員会は報告のなかでわたくしが大学院学生を沖縄の研究室でほとんど育ててないのはまったく惜しい、残念であるということを強調されていました。実際に、最後にわたくし一人がインタビューを受けた時にも、沖縄大学院が開学されたらまた学生をあなた教育するのですよね、と聞かれてしまいました。
いまやっている分裂しないジーゼロG0細胞の研究という、わたくしにとっては新しい分野が大学院生をそだてるのに誠に適しているという、報告もたいへんありがたい評価なのですが、もうわたくしには学生を育てるという強い気力は残ってない感じがします。
わたくしの学生の教育は親が子を育てるように、叱るときは激しく叱る面がありますので、気力が必要です。それに前に何度も書いたように、教育をすると言うよりは、優れた研究成果を一緒になってあげるという、やりかたですから、学生側にもそのような気分が出来たら溢れるようにあって欲しいのです。
子供に対して親がへつらわないように、大学院生に甘い顔をしたことはただの一度もありません。
かつての研究室の出身者に対して、構造研にいたときよりはあなた、ましな仕事をしたことがあるんだろうな、という無言の態度をわたくしがとるので、かつての在籍者はわたくしと顔をあわせるのを嫌がるのが大半です。そういうことをぜんぜん気にしない出身者だけがわたくしと緊張感なしにしゃべれるようです。
それでしかたない、というのがわたくしの親的態度です。実際の子供にはそんな過酷な態度はとりません。しかし、現役の研究者でいるかつての在籍者にはいい加減なことをしたら、わたくしが見てますよ、ということは感じてもらってもしかたないでしょう。だから、かつての在籍時よりははるかによい仕事をして、先生のところにいた頃は抑圧されていたけれどもいまや自由になってこんなに仕事も進みましたよ、というのが一番嬉しいです。
わたくしのスタイルを旧式な、さむらい的な学問とか、軍人的な学問とラベルを貼る人達もいますが、痛くも痒くもありません。かつて在籍したポスドクにわたくしはびっくりするほど、リベラルと言われたことが複数回ありますので、分かる人には分かる、というのがこれもわたくしの信念です。
いずれにせよ、大学院生の教育がもう終わりつつあるのだな、しかし評価委員会のいまの沖縄での研究内容は大学院生を育てるには最適、まったく惜しい、という評価自体はそうかもしれないな、と思いだしています。
しかし、教育は根本のところそこのラボヘッドがやるもので、いまのようにわたくしが常駐してない状況では、人間的にしっかりしたS君ひとりで限界でしょう。
日銀総裁人事、まったく興味ありません。わたくしには経済学者の知り合い、友人が割合いるのですが、経済学そのものには堅い不信そのものしかないし、日銀の親玉にろくな人物がなったためしがないという、わたくしの偏見は確固たるものです。
そんなものに時の総理大臣が、自分が後退する余地をまったく残さないような攻撃を野党にしかけるなど、呆れてしまいます。いわゆる狂気の沙汰としかおもえません。本気になって、野党が噛みついてきたらどうするのでしょう。日本の経済を人質にとったから、野党もそのうちおとなしくなるだろうとか、マスコミ全部がなんとかいう脂ぎった(ふうに見える)候補に好意的なので味方は沢山いるという、判断でこの攻撃をしかけるのは、特攻作戦としか思えません。
日本のかつての大戦も後退をオプションに入れてないかたちで始めました。そういう作戦は愚かなことです。周りの連中も腑抜けのくせにいくさが負けそうになるまでは強気、という一番いけないかたちの作戦になっています。
この愚かな特攻作戦が成功するとしたら、それは日本の近未来にとってほんとによくありません。