けさ比叡山坂本で電車に同時に乗った女性、かなり足がよろよろしているので心配しました。空席がないのですが、座っている人は目の前の補助席もふくめて8割方は若者たちばかり。電車がでて1分くらい、座席の背もたれに両手でつかんでいる、たぶん後期に入った高齢者、このままではかなりお気の毒と思っていたら、向こう側を向いていた若い男性が気配を察したのか、後ろを振り向いて、立ち上がって席をゆずりました。
その時の若い男性の表情はとてもよかった。どうぞ、という表情が。しぜん、かつどうぞ、どうぞという表情が久しぶりにみた日本の若者のいい表情でした。
気まずい雰囲気がたちこめて、知らぬふりをしていた若い女性連は気持はわかりませんが、たぶんホッとしたでしょう。わたくしもホッとしました。
万波医師を支持する患者さん達の関係者、それ以上は書きませんが、おいでになりました。最近わたくし、このことに、触れないのは、大マスコミの論調はだいぶかわりましたから、もう出る幕ではない、という気持でした。
しかし学術会議からこの件でなにかがでるとかなので、まったく知りませんでしたが、お持ちになったいくつかの書類、読みます、と約束しました。
どうして、この件で、移植の専門医のなかでわたくしが考える「患者の常識」に近い考えをもつかたがおられないのか、まったく不可解です。
日本だけが、専門家主導でヘンなことをやっているのは、このことだけではないのですが。訪問された方が、いわれるには万波医師をただちに擁護したのは、世の中ひろしといえど、専門家関係では、T大のNさんとわたくしだけだったとか。それは知りませんでした。名誉なのかな。Nさんはよく知っていますが、共通点はほとんどないとおもっていたら、こういうことでは似てたのですか。
いま上で「常識」とかいて触発されたのですが、わたくしが研究者として今日までやってこられたのは、わたくしのもっている「偏見」のせいです。
研究者は「偏見」をもたなくてはならないというか、新規の考えにたどり着くには、絶え間なく「偏見」を生みだしては、検証することが必要です。ただ、「常識」をもったうえでの、「偏見」ですから、みずから自分はいま「偏見」に暫時身をゆだねて、というか行動をゆだねている、こう考えるわけです。偏見をパブリックに発表すると問題があれば決して言いません。まあ、作業仮説working hypothesisなんていうのはそんなものです。
たとえば、凶悪暴力犯は圧倒的に男性が多い。これは真理かどうか知りませんが、こういうことをいうと、あれっという顔をするひとはいても、それは偏見でしょう、というひとはいないでしょう。
それで次ぎにそういう凶悪犯は男性が多いとして、ある種の潜在的なつまり生まれつきのなにかがあるのではないか、これはもう偏見に近いものです。
しかし、もしかしたら、本当かもしれません。
さらにその生まれつきのものは男性なら誰でもがもっている、性染色体に宿っているかもしれない。このあたりにくれば、仮説かなり可能性の低い仮説といっていいでしょう。
どうやって、この件をしらべるか、そうだ凶悪暴力犯がたくさんいる刑務所にでかけていって、承諾をえて、性染色体の様子を、できたら詳細な性質を、通常の男性プールと調べて比較してみようではないか。
ひとたびアイデアがこの方向にむかえば、この程度の考えならば、専門家なら5分もあれば考えつくし、具体的に調べる最新の技術もいろいろ思いつくでしょう。
しかし、このような研究は禁止されています。
ただわたくしが若い頃にやった研究者がいて、論文を発表してかなり批判されました。
当時の論文の結論では、Y染色体がふたつ(通常はひとつ)ある男性、つまりスーパーメールは犯罪率が高いかもしれない、というものでした。本当かどうかわかりません。いまなら、精密の解析手段は飛躍的にすすんでいるので、色々なことが調べられ。もっとはっきりした結論が出るような気がします。しかし、このような研究を政府やパブリックが認めるべきでない、という意見は正しいような気がします。
ずいぶん、昔のはなしですが、当時仲間達と議論して、天才のような人たちもそのような中に含まれていたのではないか、ということを半ば真面目に話したのを記憶します。
両性具備の人がおりおりに現れるのは、周知のことですが、過去においてはそのような人々を神からの地上への贈り物としてあがめて大切にしたことがあったとか。いまの日本そのあたりなんか伝統が残っているような気がします。話がそれましたので、きょうはこのあたりでやめておきましょう。