終戦記念日に、自殺考

63回目の終戦記念日。
新聞も格別に書けることがありません。

今も日本は世界政治の中で敗戦国として振る舞っている部分があるいじょう、終戦記念日は、敗戦記念日であり、日本の若者たちに希望を与える日にはなりえないとおもいます。

未曾有の災厄をもたらした日本の引き起こした戦争が敗戦になった日を記念するのもいいのですが、米国との開戦を始めた真珠湾攻撃の日を記念日にするほうが、真珠湾以前と、真珠湾から敗戦までの二期に分けて、戦争の意味はよりわかりやすく日本の若者に伝えやすいとおもいます。

戦争ということばから類推されるものとして、日本の自殺者の多さです。毎年3万人を越える人たちが自殺をしているのですが、わたくしには日本社会がこの大問題を放置しているようにしかおもえません。無責任社会という言葉を日本にあてはめると、まずこの自殺者の異常なまでの多さを第一にあげたくなります。他にもたくさんありますが。

自殺は殺人でないのか?これがわたくしの素朴な疑問です。
自らの生命を絶つのは自らに対する殺人ではないのか?
自殺未遂者はなぜ殺人未遂として逮捕され、犯罪者として扱われないのか?
加害者は本人、被害者も本人、そして罪の名前は殺人未遂です。
このような学説をたてる法学者は日本にはひとりもいないのか、たぶんどこかに居るはずです。

自殺未遂者が罰せられれば、自殺志願者は激減するでしょうか?
わかりません。
しかし他人を殺める権利が誰にもないのに、なぜ自分を殺める権利が自分にはあるのでしょうか?
不思議でなりません。
子供、家族を自殺で失ってしまった人たちから見れば、犯罪者になっても生きている方がありがたいと思うかもしれません。
本人は、自殺をする権利があるのになぜ止められ、かつ罰せられるのか、と怒るかもしれません。
そこのところの議論は日本社会はぜひやるべきです。

心中という家族の一員が他のメンバーを殺人するという「残虐な」行為を黙認するかのような日本の風潮がどうして生まれてくるのか、これも考える必要があります。

ここで外出時間がきたので、きょうはやめます。
また触れます。

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