女子マラソン考、自殺考つづき

女子マラソン見ました。
日本の惨敗、予想されていたとはいえ、ここまでとは。
Qちゃんだけでなく、みずきさんも「たたり化」してきたとおもうのです。
これほどの不世出といってもいいくらいのマラソンランナーが日本社会によって偶像化されなかったのは、ほんとに残念です。偶像化されてもなおかつ現役でありつづけることがなぜ可能でないのか。
尊敬されかつマラソン社会の現役の一員であり続ける道はなかったのか。なぜ引退、引退とマスコミは騒ぐのか、まったく分かりません。
海外のランナーが30台後半でも立派に走っているのを見たら、そしてQちゃん、みずきさんのでないオリンピックで優勝するのをみたら、なにか日本の仕組みはおかしい、とおもうのです。引退などということばを生意気なマスコミアナウンサーなどに絶対言わせてはいけないと思うのです。

先週末の自殺考、いきすぎの極論とは思っていますが、真意は別のところにあるのです。
日本では、臓器移植や子の生を通常の方法でなくつくろうとすると、いろいろな制約があります。個人の自由などはあまりというかほとんどありません。
海外に可能性をもとめてでていくのはだれでもが知っていることです。最近では借り腹などをしたら、刑事罰をくわえるべきだなどという議論すら医師や研究者が言いだしています。
自らの命を絶つことに対する無関心と著しいコントラストです。
少数の人たちが、自身や自身の子供を作る上での可能性の追求を社会がここまで制限していいのか、個々の問題にははいりませんが、わたくしの率直な印象です。
だいたい、生まれてくる子供のことをまずだいいちに考えるべきだ等と、良心家面をした研究者がいいます。
夫婦がいちいち生まれてくる子供のことばかりかんがえていたら、子供などつくれなくなるでしょう。
日本は自分で自分を殺すのはだれも邪魔もしないで勝手にできるけれども、子供を産む手段を通常のものからちょっとでも変えようとおもえば自由度はほすくない。
へたすると、関係の医師も両親も牢屋かマスコミの餌食になる可能性の国になってきた感があります。
わたくしは、自殺についても官憲などが出てくるべき問題とはもちろん思っていません。倫理的にどうしてそう容易に許されるのか、そこのところを言ってるまでです。

生を生みだす多様性は極力社会の中で認知していくべきだと思います。特に例外的な少数者の自由には格段の寛容さが必要とおもいます。
社会のごく少数のひとたちがおこなっていることはとりあえず黙ってみていくのがベストなことが多いのです。
口を出し、介入するのはよほどのことが起きそうな場合です。
自殺者年間3万人、こちらはあきらかに社会が口を出し、介入する状況になってきたと思うのです。

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