ノーベル賞と国力、益川博士の涙

今回の四人のノーベル賞の受賞者はどなたも純粋基礎科学者で、とくに益川さんなどは面目躍如で世間がすっかり忘れていた科学者をおもいだしていただけるとてもよい機会になっているようです。
また下村さんも、クラゲ、発光、視覚化とか一般のかたにもわかりやすくかつご家族の奥さまなどがクラゲ集めにこき使われてなどというので、とても身近に感じられたようです。クラゲ集めの写真を提供されたのが最近東大から学習院に移られた馬淵さんでした。そういえば日本から米国にわたって大きな業績をあげられたかた達には、野村真康先生や井上シンヤ先生がおられます。おふたりとも本当にすばらしい業績をあげられています。

わたくしは益川さんの涙が印象的でした。その涙が、彼の言葉を借りますと、若いときにはるか高いところにいると常に仰ぎみていた南部博士のことを言っているときで、南部博士と同時に賞をもらう、という感動からくる涙で、これはわたくしにもよく分かる気持ちでした。
科学をやろうとする若者たちのおおくはこの仰ぎ見る気持ちが原動力になっているのです。
それがもしも同じ国の人であるのなら、それがその国の伝統と国力を現すのです。和歌を志す人がおもう西行であり、文学における樋口一葉や夏目漱石かもしれません。理論物理学なら湯川、朝永博士に今回の南部博士などもまちがいなくそうなのでしょう。
わたくしも大学院生のまだ入り立て頃に仰ぎ見ていたのは、前にもふれましたが名古屋大学の朝倉昌さんでした、かれがやったようなエレガントな研究をしてみたい、という強い情熱がわたくしには強烈にありました。
こういう若者の気持ちを生みだすものが、その国に深く根ざす、文化、芸術、学術(それに体を動かすスポーツや武術のようなもの)の伝統に依存するのだとおもいます。文化、芸術、学術、スポーツはわたくしの考える国力の七割だとおもうのです。残り三割が実体として経済や軍事力だとおもうのです。
人間がなぜ毎日毎日勤労するのか。それほどしたくもないつらい勤労にたえられるのも、結局それぞれの人たちの生きがいというものを生みだす「教養」によるのでしょう。その生き続ける原動力となる教養をうみだすものは、なにか。それが強い感情をうみだしてくれる「文化」なのでしょう。ありがたいことに、日本の文化には自然科学に不可欠な素朴な好奇心と長い忍耐心とそれに夢を生みだしてくれる豊かな土壌があるのです。すくなくともありました。
いまはどうなのか、知りません。
でもわたくしは、そのような日本の土壌に育ってきたことをみずから深く感じます。
そして益川さんの涙はわたくしも共有しうるものです。日本文化という観点で見てこれほど愛国的な涙はないでしょう。しかしその対象の南部博士は日本にいないことを日本の人々にぜひ気がついてほしいのです。
そしてこの南部博士も下村博士も、高齢であるにもかかわらずいまも研究者の顔立ち、強い言葉ですが、面魂をしています。もちろんいまも研究者だからです。
益川さんがいまも研究者そのものに見えるのはとても嬉しいことです。益川さんの心も能力もいまも研究の現場にいるのでしょう。

先日のブログで科学技術振興機構について惨憺たるという表現をしましたが、もっときつい表現をすべき組織かも知れません。
人名はもうあげませんが、本当に極端な科学技術行政がわが国でいまや横行しているのです。
科学技術の国力は30年から50年先にじっくりと出てくるものです。これは自分の経験を考えればまちがありません。日本の文化と伝統に深く根ざしている最も良質な部分を再興しなければなりません。そのために、悪しき行政を変えて欲しいものです。

きょうは休日でしたが、書いてみることにしました。このあたりの周辺にはわたくしには書きたいことが沢山あるのです。

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