あした東京である法事のために午後にラボを出ました。京都駅の雑踏ぶりに行楽期であることを、しかも金曜の午後であることに気がつきました。あんまり人が多いので土産物も買う気が失せました。
母親が亡くなって、早いもので七回忌となりました。孫たちがそれにひまごたちも参加するのでそこそこの人数となりました。栃木のほうからはふたりのおばが参加してくれます。
このあいだ母の妹であるおばの十三回忌にいきした。わたくしの家系は完全な栃木つまり下野人であることをあらためて確認しました。
わたくしの母親は旧姓が中山で、父親と同じ那須郡(いまは町ですが)の田野倉で生まれ結婚後に東京に出てきたのでした。母親の母親(つまりわたくしの祖母でもありますが)は旧姓玉生(たまにゅう)でやはり宇都宮により近いところから嫁いできたのです。八人の子を産んで49才で亡くなったのでした。わたくしの記憶にはですから、祖母はほとんど残っていません。こんかいおばの一人に人柄を聞く機会をえました。
闊達で社交的、頭脳明敏ということでした。商売をやっていたので、客のあしらいやトラブルの対応が非常に上手だったと聞きました。
なお、ついでに言いますと、父親の母親の旧姓は鈴木です。父親は福岡というところで育ったのですが、そこから徒歩で小一時間、車ならすぐですが台新田というところから嫁いできたのでした。
父がたの祖母は強く記憶に残っています。とても暖かいひとでした。わたくしのことを賞めてくれて、それが嬉しかったのですが、しかし嬉しそうな顔もできないので、どうしたものか困惑した記憶があります。
わたくしの母親は兄弟姉妹のなかで一人だけ東京に出てきたこともあり、また三人の子どもを抱え、母親の看病にもほとんど参加できず、長いことその記憶が苦しめたようです。最晩年になってもそのことを話し出すと、涙をよく流していたものです。
わたくしは母親とはよくぶつかったものでした。特に子どもの頃には、用を言いつけられて、それをするのがいやでよく反抗したものです。しかし、この年になると、母も父もえらかった、とおもいます。あの日本の大変な時期に着々と力強く生きてきたのでした。子どものわたくしにも甘いところは絶対見せませんでしたが、結局わたくしのやりたいことをなんでもさせてくれ、口出しを一切しないで、経済的に楽でもないのに、最大限のサポートをしてくれたものでした。
言葉でなく、行為で教えを受けた感が深いです。自分が自分の子どもに接するのにやはり同じような態度を無意識に取ってることに気がつきます。