ラボに出てきました。
今年は良い年でありますように、という気持が職場に来ると強く感じます。
沖縄のほうにもなるべく早くいきたいものです。
インドから来ていた二人は新年も無しで頑張っていましたので、ふたりともなかなか素晴らしい研究の進展があったようです。
他にも鮮度のたかいデータをだしたIA君などもいますので、ひとりずつ話をすると時間がどんどんたちます。
いっぽうで毎年の研究費関係の報告や計画書の提出それに、講演のタイトルや600字程度の要旨など最近ではどこでも依頼してくるものにも対応せねばなりません。
世間の研究室の主宰者は平均してどれくらい忙しいのか知りませんが、研究そのものと研究の周辺の仕事の量比が4:1くらいならいいのですが、半々とかになってしまったら、もうなんのために仕事をしているのか分からなくなるはずです。
今年、頂いた年賀状やカードのなかにも過重な研究以外の仕事量を嘆くものがありました。わたくしも、4:1を維持すべく、かなりの意識的な努力をしています。
わたくしの頭の中では、報告書の作成や講演要旨の作成などはもちろん研究周辺の仕事に分類されています。
昨年の終わりに、教育問題について何回か書きましたが、一つ残っていました。
数学をどう考えるかです。
わたくしは、初等教育での算数はおちこぼれてしまった子ども達の救済がどう行われているのか、社会はもっと関心を持つ必要があると思っています。
小学校でやる算数については、日本独特の九九を暗算する部分があって、これがスムースにいかないと、その先うまくいかないのは周知の事実です。つまりお金の計算などがほとんど暗算で行われるように、社会生活を営む上でも必須の記憶事項になっています。さらにこれに次の段階の分数が分からないと、中学でのほとんどすべての数学ができないというになります。これも枢要なステップであることはいうまでもありません。しかし、分数は実際の社会生活で割り勘にするときやケーキを切るとき等に必要かもしれませんが、あまり重要性を意識されません。このあたりから、算数が疎遠になっていくのかもしれません。
理系の知的エリートがその後数学とどうつきあうかなのですが、数学を絶対的な必須ツールとするような職業を除くとどうも数学の存在感が低い。大学受験での圧倒的な存在感が消えてしまう感があります。特に生命科学系では、数学をツールとして駆使するひとに滅多にあえないのが事実です。
数学を力強い、頼りになるツールとみなしている職業的研究者が生命科学分野ではほんとに少ない、このあたりに日本における数学教育の問題点を発見するポイントがあるような気がします。
結局、日本の数学は「非常に役にたつツール」でなく「いくらでも難しく煩雑な問題を作成できる数学」になってしまっているのですね。
数学がなかったら、たくさんの学問分野が成立しないという、あたりまえの有用性が実感されないような教育が行われているのが問題なのでしょう。
複雑で高級なのが尊いのでなく、シンプルで有用性が高いもの、が良いのだという,確固とした信念が数学教育に欠落しているのでしょうか。
有用性がわかれば数学はとても身近になるでしょう。
有用性のまったくわからない高級数学は,専門家もしくは数学に格別の愛情をもつ人たちによって維持、発展、育てられていけばいいのです。もちろんこの部分も大切なことはいうまでもありません。