あっというまに週のおわりです。
でも昨日、H君の論文がとおりましたとの知らせがありまして、これでもうひとつの肩の重荷がとれました。ここまではわたくしの責任が大きいのですが、この先は本人の努力でいけます。
きのう大人の常識で考えてください、というセリフがついつい出てしまいました。
世の中、おとなの常識が通らないことが多すぎます。
いちばん常識が大切なのは政治ですが、硬直した運営しかない自民党のやり方は、大人の常識を世の中から忘れさせる最大の原因のひとつです。
その点、昨日小泉元首相が、給付金は国会の2/3条項を使うようなことではない、野党とよく話しあうべき、というのは当然の大人の常識を開陳したまででしょう。昨年の選挙での民意が反映されている参議院の意見は重視すべき、ということです。なんでこんなことが、政治の常識となってないのか、世の中がぎすぎすしているのは、こういうなんでもかんでも数の理屈で押し切るといういまの自民政治が原因のひとつです。
おとなの常識というのは、人と人との関係の根本にあってしかるべきです。そういうものが、あれば居心地のいい社会となります。
世の中、もちつもたれつ、いま誰かに助けてもらったら、いつか別の人でもいいから誰かを助けましょう。性や年齢で差別しない、お金のなさそうな人でもなにか足りない人でも決して見下さない、人の困った姿をみて同情こそすれ蜜の味などとは本当に恥知らずだということでしょう。
戦争で捕虜になった人たちを蔑視も虐待もしないどころか、友人のようにつきあうのが、大人の常識だとおもうのです。わたくし大阪の中年の男性としゃべったりして折々に感じるのは、まさにその大人の常識を持ってそうな意見を言う人がおおいことです。まあ常識を持つことと、実際に実践するのは、別なこともありますが、でも常識を持たないよりは、もつ方がいいに決まってます。
たまたまわたくしが大人の常識といってしまったのは、人にものを頼むときは、どう頼むか、どこからどこまでやってもらうのか、前もってちゃんと考えておくものだ、ということでした。そもそも、ものを頼める人を出来るだけ沢山作れるように平素のひとづきあい、社会での自分の振る舞いをしておくのが大切じゃないか、こういうことを言いたいのです。わたくしもいろいろお願い出来る人を沢山持っていますが、でも頼み方がいかに大切かをしっているし、それが自分の年輪かなとおもいます。ですから、若い人が大人になると言うことは、人間を怖れてはいけないので、むしろ人間関係のあたたかさを経験できるうえでも、相手にものを頼むのはとてもいいことなのです。でも頼むからには、なんらかの段取りと、その後どうなるのか、というイメージを明確にして頼まないといけないのです。
滋賀県のミホミュージアムについて、きな臭い記事が国会議員周辺で起きています。あの広大な土地が手に入るにはやはり政治の力が必要で、しかも半端でない額の献金があったと聞くと、やhり、という感があります。こういう政治家への頼み方は、大人の常識でなく、一蓮托生の犯罪の道に入る非常識の世界になるのですね。日本ではこういう頼み方が頻繁にあるので怖いです。後で、頼んだとか頼まないとか、裁判になってからもめるのでしょう。宗教、政治、収賄斡旋的な話しを聞くと、あのミホミュージアムの展示が色あせてもう素直に楽しめなくなります。