話題にしませんでしたが、このWBCなる世界野球クラシックなるものおりおり見てました。
きょうはキューバに強い勝ちっぷりでした。これで原監督の起用は成功、と言えるようになりました。原監督は前面にでないでいるのも星野氏と異なって、よい感じです。次は因縁の韓国戦だそうです。
なぜ侍かしりませんが、いまの日本の時代が必要としている人たちのイメージなのでしょうか。映画、七人の侍あたりがみなさんの頭の中にあるのでしょうか。それに選手の風貌が侍に合った人たちが多かったような気もします。小笠原とか。武士でなく、さむらいというのが、この際、いい感じです。
侍には主君がいるのでしょうが、それはこの場合勝敗に一喜一憂している日本国民になるのでしょうか。
いつのまにやら、日本の野球は世界野球で優勝しても不思議はないくらいの力を身につけていることを今朝の試合の一部を横見でちらちら見ながら実感しました。誰かが傑出しているというのでなく、皆おなじような水準に達しているのでしょう。もちろん松坂投手の好投は決定的でしたが。しかし、野球の宗主国はあくまでも米国でしょう。相撲についてはいまでも宗主国は日本でしょうが、でも節度をもちつつ外国選手に対する狭量だけは捨てないといけないでしょう。朝青龍は大阪で人気があるのも、彼のガッツポーズを認める気持が大阪人にはあるのでしょう。日本人力士はガッツポーズはいけないが、モンゴル人の朝青龍には特例で認めるというような大岡裁きが必要な時期なのでしょう。そうでないと、朝青龍は引退後相撲でなく、格闘技にいってしまうし、それは残念です。
研究をする姿勢としてあまり「なぜ?」という疑問を発してはいけないと昔いわれたものでした。つまり、なぜ鼻の穴はふたつあいているのか、なぜ手の指は五本かといわれて、その説明に堕するようなものはいくらやってもしかたがない、とかいわれたものでした。もうひとつは、「決して擬人的に考えるな」ともいわれたものでした。つまり研究対象がいくら生き物とはいえ、人間的感覚で考えるな、とかいわれたものでした。わたくしはそういうことにあまりこだわらないのですが、しかし、自分の経験ではたしかになぜを連発しても、擬人的に考えても、よりよい研究ができたわけではありません。
しかし、最近ちょっと違う体験をしています。
もう5年前からやっている沖縄での研究で、栄養飢餓においてから起きる細胞のレスポンスを調べていると、自分が細胞の身になって、どうしよう、などと考えてることに気がつきます。
擬人的に考えると、案外いいアイデアが湧くものでした。
驚きですが、でも飢餓のようなものはそうなのかもしれません。
その身になった気分、つまり猛烈な空腹感に襲われたらどうしましょうとか。空腹は大変なストレスですから、そのレスポンスも大々的であっても不思議ありません。
これから三日間何も食べられないと前もって、分かったら、どう準備対応するか、とか、わがことのように考える飢餓感覚が決して邪魔でありません。
この五年間でわかったことは、わたくしの30年間の染色体の分配制御は飽食している細胞の中で起きていることをしらべたものでありました。飢餓下ではどうなのか、いまだ知るよしもありません。