わたくしの考える科学技術政策その2 博士を考える

第一回は、重点でなくひろくうすくお金をばらまくことを主張しましたが、二回目は博士取得者について政策的に論じましょうか。

このあいだ中国を訪問してたくさんの大学院生、とくに女子院生と接触する機会をもちました。なかなかいい雰囲気でした。つまり北京大学や上海の科学院あたりのエリート達でも日本の院生にある臭みがなかったです。つまりフツー的な人々でした。もちろん中国人の中では特殊である可能性は大ですが。ただ、見ている方向が米国一辺倒なので、これには閉口しました。それで、スイスの会合であった中国人の若い人たちに、もっとヨーロッパを宣伝したら。といいましたが、かれらもくるまではヨーロッパの良さはぜんぜん分からなかったといっていました。中国政府の博士取得者についての政策を知りませんので、何も言えませんが、ただはっきりしていることは、海外にでてそこで、成功しないと中国にもどれない、とあった中国人の大学院生のほとんどが思っていることでした。

それで日本です。
いまや後ろ向きジャパンですから、大学院政策もしっかりそうなって、全国大学で大学院生の入学者数を減らすようにとの、文科省の指導があったとの新聞記事を見ました。
いまの定員割れの大学院、特に工学関係の現状を単に追認するだけとの見方もあるでしょうし、博士で国力を上げるという考えも幻想にしかすぎない、の見方も強いでしょう。

でもわたくしは考えが違います。
このブログでももう何年も前から書いているように、博士号の資格が取ってもなんの役にも立たない、漢字検定よりも役に立たない程度のものであることが、もっとも大きな原因だと思っています。取ったら、実質性の資格になることが判明したたら志望者はぐっと増えるでしょう。
博士号取得者はどこにいるかといいますと、大半が大学や研究所にいるのです。教授や研究室長が博士号がないのは考えられませんので、実質的なメリットはありません。
中学、高校の教師の例えば、10%は博士号取得者が望ましいとか、県庁、政府などの官公庁も同様に10%を博士取得者にすることを義務づけたら、どうでしょう。
もちろん給与も、差をつけるのが当然でしょう。
これで大学院博士に行く人が増えないことはあり得ないと思うのです。
通常の大学生より5年、修士課程より3年も長くいて、なんのメリットもない博士号など、価値を認めないのは当然でしょう。
反論はいまの博士取得者は、役ただずでオタクっぽい、ヘンな奴らばかりだというのには、そもそもメリットがないから、そうなってしまうのだというのがわたくしの反論です。
つまり、そういう風に公的な社会で当然役にたつ能力識見もあわせもち、さらに専門的にたかい知識を所持する、そういう社会に役にたつ、人物をそだてるように大学院を変えていくことが必須でしょう。

何度もいうように、問題はタマゴとニワトリの関係です。
意味のある資格を与えれば、社会にとって有為になるであろう人材がどっと志願して、その結果他に行き所の無いようなヘンな若者は淘汰されるでしょう。
こんなことを書くといまの院生はかならずや怒り出すでしょうがでも議論の流れはそうなのです。
なんの意味もない資格でしかない博士号を欲しがってくるような若者が今の日本にどれだけいるか考えてください。滅多に居ません。大半はあやふやな若者ばかりです。怒る院生が多いでしょうが、でも今タマゴの立場に居るからそうなのです。ニワトリになった人たちの多くがそういっています。だいたい、今の傾向はいまの40代半ばでもう既に相当の傾向が出ていまして、先駆者が50代に到達していますから、根の深い問題です。あやふや心の院生をあやふや心の教授が指導しているのが、いまの日本の大学院の現状なのかもしれません。

実際のところ、研究者の心髄は、知識社会での看護師的なキャラクターにあふれた人たちであることが望ましい。看護師的キャラクターとは、奉仕、犠牲の精神です。
望まれたら、どこにでもいって教育や研究の指導、助言など奉仕の精神でやりたい、そういう人が多数であるはずの社会なのです。それに冒険精神があればいうことありません。
高収入をあてにするような人はくるはずがありません。
もちろん功名心はあるに違いありません。特に若いときは。でもそのために自分の生きる時間の大半を費やして努力するのです。それに対する収入などはほとんど無いのにもかかわらずです。ある意味自己犠牲のかたまりみたいなかたちでしか自己の功名心などは達成できないのです。
犠牲精神が自分に向かっても許されるのが研究者の世界です。特に若いときは。

ですから、社会はもっともっと博士号取得者というひとたち、をじっくり見てほしいのです。とてつもなく役に立つかもしれない人たちなのです。
収入は低くても安心して研究が出来るのなら、喜んでその地味な生活を一生続ける覚悟のある人達なのです。社会が「飼って」損は無い、そういう人たちなのです。
なかには外国に出て行って、日本の豊かで高い知的な世界を伝達するという役のも立ってくれるのです。日本社会にとって、貴重で大切な資産になりうるのです。

ニワトリとタマゴの関係でいえば、まず入口でのタマゴの選別の状況にかなりひどい「あやまり」や「劣化」が現在進行中ではないのか。

その原因は、ニワトリになっても、メリットが無い、社会が無視する人々、と思わせるいまの政策にあるのではないか、こう思うのです。
わたくしのおもうタマゴの資格は、本当にフツーの人たちなら、いいのです。あとは普通のいみでの「やる気」があればいいのです。100人のうちの80人か90人はそれでいいのです。
すごい、人材はフツーの人たちの集団の中から生まれてくるのです。
そのあたりを考えた、抜本的な政策変更が必要なところに来ています。
博士の資格を世俗的にみて有利にすることしか、ありません。それで、フツーの若者たち博士課程に集まって来るでしょう。

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