きのうは蒸し暑かった。あやうく日射病になりそうでした。
畑を整理しようとして、午前、午後と二回に分けて畑に入ったのですが、夕方近くても温度が高いので脱水的になったような気がします。沢山水を飲んでもなんだか体調がおかしい感じでした。年寄りに冷や水もそうですが、年寄りにかんかん照りもやはりいけません。でも妻もやってくれたのでかなり下の畑はスッキリしてきました。猿飛もネットの外から手をつっこんでとれるナスと、ネットの外にあるカボチャを食べているようです。それにたった2つあったナシを紙袋を引きちぎってきれいに皮だけ残して食べていました。
認知症は女性に多いと聞いています。理由は聞いたことがありませんが、遺伝子的なものとはおもいにくく、社会的なものが原因ではないかと勝手に想像しています。
社会的とは、つまり女性が長年にわたってやってきたことが年をとって出来なくなったときに、生きることへの閉塞感が女性のばあいとてもきついのではないか、と思うのです。つまり多くの女性が長年やってきていることは、「愛情」とでもくくられるような行為なので、それが不要になるとおいうか、その感情を向ける対象がなくなったときに、起きやすいのではないか、とおもうのです。徘徊するようなことも、愛情対象の欠損によって、いてもたってもいられないような、感情がこみあげてくるのではないか、と思うのです。
そんなことをふと考えたのは、比良の家からときおりJR線で職場に向かうことがあるのですが、これまでに三度同じ女性が駅にいて、そのようすがわたくしにはどうみても徘徊しているように見えたのです。それだけでなく、わたくしのことをじっと見つめて、ものいいたげにしているのです。いちどはかなり近寄ってこられました。何か、わたくしに言うかなと思ったのですが、ものいいたげにして、結局何も言いませんでした。
なんでだろう、と考えました。確かめることは出来ませんが、わたくしがこのかたの近縁の誰かに似ているのかもしれません。年の頃から70代に見えるので、そのかたの配偶者に似ているとは思いたくないのですが、そういうことかもしれません。
わたくしもかつて、父親がながいこと昏睡状態が続いたときに、町中で後ろ姿が似ている男性をみておもわず急いであるいて前から見たことがあります。なかなか切ないものです。
認知症で徘徊する人がみな愛情対象を失ったとは思いませんが、世の中にはそういうかたたちがおおいのではないか、周囲の特に若い人たちはそのあたりのことがまったく分からないのではないか、とおもうのです。
わたくしがこの駅で会った女性になにかできるといいのですが、こんどあったらわたくしが何か声をかけることが可能かどうか考えてみます。
しかし、この愛情対象を失った多くの女性に代替えを本人が見つけることは可能なのでしょうか。