外部の知恵、アバウトな伝統社会続き

昨日夜はエジンバラからのPFさんと夫人がこられたので一緒に妻もまじえて食事をしました。
百万遍のそばのSでした。
話がはずんであっというまに10時でした。夕方6時半から始めたのですが。

きょうは同じ英国からきたYさんがラボにきてセミナーをしてもらいました。1時間半やってもらったので、しっかり頭に入りました。そのあとはずっとラボメンバーの研究のはなしでした。ほんと助かります。研究室の仕事に外部の知恵が入ってくるというのは、ほんとありがたいのです。

昨日かいたことにあったコメントはわたくししか読めないのですが、アバウトな社会というのは同感ですというものでした。
それでこのことをもうすこし書き続けていきますと、天才肌のひとというのは伝統社会、とくに昨日書いたアバウトな伝統社会で生まれやすい、そんな風におもっています。ここで天才肌と書いたのは天才ではなくて天才肌というところです。同時代のひとはそうやたらに近辺のひとたちを天才とは思わないでしょう。でも天才肌のかわりものをたくさん抱えられた時代なのでしょう。
江戸時代の絵師のなかには沢山の天才肌のひとたちがいたことは間違いありません。浮世絵師のおおぜいの群像を見ればあきらかでしょう。また伊藤若沖のような人も今の時代では天才肌ではなくて天才と言われているのでしょう。でも当時はそういうタイプの人がたくさんいたので天才といわれたかどうか。わたくしが考えるあそびのある社会というのはそんな風なもので豊かな文化が栄えるに違いない、そう思っています。
あそびが沢山ある伝統的な社会は変わった人間が落ちこぼれずになんとか食べていけたのだとおもいます。そういう変わった人物を黙ってサポートした人たちがかなり沢山いたに違いありません。松尾芭蕉など支持者の家から次の支持者の家への旅を続けたようなものでしょう。
いまはお金を使う人たちは消費者になってしまって、余裕もプライドもありません。お金をもっている旦那衆もいなくなりました。
これからは韓流でお金をつかっている熟年日本女性が関心を変えて、天才肌の日本若者男性のパトロンになってあそびのある社会のなかで面白いものを作ってくれるといいのですが。

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