生命科学は寄附に値するか

朝のうちに畑に残った夏の作物の最後の分を抜いて片づけ作業をしました。ネットの中はすっきりして、正月までに周辺の雑草なども刈る予定。隣接する水田も鹿よけのプランを変えてるみたいでかなり背の高いネットを頑丈に張る予定のようで、わたくしのところのあぜ道にあったよく切れている電気柵は無用になるらしい。わたくしのところも自分で鹿よけは別途やっているので、間に鹿の通路はちゃんとあることになりますが、どこに行くのでしょうか。前は琵琶湖岸までいっていたらしいのですが、いまは間に国道があります。

朝の政治番組をみると小企業主が民主党は現場を知らない(馬鹿の)集まりとかいっていました。減らすことばかり考えて、成長のことはなにも考えていないとかわたくしなどの感じと同じことを言っていました。面白いことにやはり補助金をもらわないと、いまは世界と技術革新で競争できない、と大田区あたりの小企業の社長さんが言っているのです。わたくしたちと同じです。でも本当は自前でやりたいのでしょうね。亀井大臣は今の経済の悪化を財務省と小泉元首相が悪いんだと、転嫁していました。でも、それは政治家的な発言でしょう。ただ小企業主には亀井大臣のような強い政治家がついています。うらやましい感じがします。

前に学術会議で研究費の増大を論じた時に状況を憂えている人達は沢山いるのですが、どう対案を作るかで意見がどうしても分かれてしまうのです。ところが学術会議というところは提案するものは一つで無ければいけないので、一つの案に集約できないものは上のほうに提案できないのですね。
そのときの感じでは、ともあれパイが小さすぎる、だからパイの切り合いでどうしても研究者が分断されてしまう。総論はまだしも文系理系すべての分野をいれた科研費2千億円はトヨタ自動車一社の年間開発費の数分の1とか10分の1といわれています。悲しい取り合いになってしまうのです。それをさらに切り刻もうというあの仕分け会議がどれだけ研究者を意気消沈させたかです。
その時の学術会議委員会では、ともあれ寄附の税制をなんとかならないか、寄附がしやすいようにならないか、という議論が沢山行われました。
税制が変わってもかならずしも寄附が増える保証はどこにもありませんが、しかし生命科学のような医学、医療の進歩をもたらすようなものは個人の寄付により頼っていくことは可能だと思うのです。現に米国や英国ではかなり成功しています。
大学や病院の建物や組織に寄付者の名前をつけるというのは最も一般的な富豪への寄附のよびかけでしょう。京大では京セラの稲森さん任天堂の山内さんが巨額の寄附をして頂いております。
英国では王室名を使って寄附を一般につのるというのもあります。この場合千円でも100円でもありがたく頂く、という姿勢があります。
前にもこのようなことは書きましたが英国や米国の研究者の相当多くはこのようなチャリティーによる組織から給与や研究費をもらっているのです。
これが日本でかのうかどうか、分かりません。たぶん、日本人の心のよりどころになにがあるのか、財産を持っている人が世を去る時にもしくは最も愛する人がこの世を去った後でどのように遺産を使うのが良いのか、それを決める人達の心の問題なのでしょう。また世を去る時に自分の名前を何らかのかたちで残したいと思う人が研究のようなものに心を向けるかどうかでしょう。
不可能かもしれませんが、しかし研究者がすこしでも自助を考えるのなら、このようなことを考えるべき時期に来たと思うのです。
そのために、単なる宣伝でなく生命科学がたしかに寄附に値するものであるとほんとに思って頂かないと駄目なのでしょう。そう思います。

タイトルとURLをコピーしました