自由、平等、博愛、君の考えにわたくしは反対だ、でも

一度は書いておきたいことなので、今日かいておきましょう。
わたくしは人間は強く信ずることがないとなかなか生きにくいものだと思っています。そういうものがないと、道を踏みはずしやすい。ある程度の年齢になるとそのようにおもいます。
世界をみれば多くのひとたちは宗教を信じているのだし、日本だってついこの間までは多数の人達は先祖からの神様、つまり家族の神様を仏教の他に信じていたのだと思います。しかし家族の連綿たる続きが強く信ずるものの筆頭に来る人達は減りました。世界中、先進国はどこでもそうなのだと思います。しかし、大なり小なり、宗教に匹敵しなくとも家族を信じて生きている人は多いはずです。国や自分の郷里もしくは民族、そういうものを信ずるものを筆頭に持ってくる人達もまだまだ多いはずです。しかし、日本でそういう人達はいまや少ないはずです。でもそうではありますが、家族愛、郷土愛を筆頭にもってくるような人達がこの地球上ではまだまだ多数でしょう。今の日本、これからの日本が混迷するとしたらたぶん国民の強く信ずるものにだんだん公約数的なものが減っていき、信ずるもの自体も希薄になっていくからでしょう。強く信ずるものがあれば国家の中でたとえ衝突があってもよい方向に結局は向かうとおもうのですが。

一方で、世界中のだれもが賛成するような考え、つよく信じたくなるようなそういうものを深く信じたいと思う人達も多いはずです。人類というくくりで誰もが賛成するような考えを表にだして、それをすべてのひとたちが強く信ずる、そういうものがあれば、それに越したことはありません。すべての人が豊に暮らす、幸せに暮らす、そういう考えはもちろん悪いはずがありません。
歴史的にみると、国を超えた人々にアピールするという点で、そういうもののはだいたい革命思想なのですね。つまり伝染性が非常に高い。インフルエンザのように考えが、次から次に人々が感染してしまうのです。
フランス革命時に謳われた「自由、平等、博愛」などはその代表というか最も古典的なものでしょうか。
実はわたくし10代半ばの頃にこの考えに感染を受けて洗脳されてしまいました。
これ以上の生きるためのスローガンはない、とその時思い、その後この考えから脱却もせず、それ以外のものに夢中にもなりもせず、結局このスローガンで人生を生きて来てしまいました。たぶん、生きるうえでの座標軸の原点になるような生き方をしてきた「つもり」です。あくまでつもりです、から。わたくしが、自由、平等、博愛をモットーにして生きてないかのように思われる人がいてもしかたありません。
ただわたくしの「自由、平等、博愛」は誰の書いた絵でしたか、女性が戦場で長い髪をたなびかして旗を持って立っており、周囲はたちこめる硝煙と沢山の倒れた兵士達、という概念に近いのです。つまり、たたかうための概念だと思っておりました。ですから平時にはほとんど頭をよぎることはなく、いくさをせざるを得ないときにこのスローガンがあの女性の旗が思い起こされるのです。まったく誇る気は毛頭無く、そういう風な頭脳の回路が基本にあるのだ、ということなのです。ただわたくしは女神のような女性でないので、戦場でみんな死んでしまったあとで一人で戦いつづけるようなイメージがデジャビュ的にあるのです。これも個人行動を常にとりたがることと関係があるのでしょう。
この自由、平等、博愛の考えのすぐ隣にある考えがやはりフランス人ボルテールの言った、「君の考えにわたくしは反対だ、でもあなたがその意見を述べる権利をわたくしは自分の生命をかけても守ろう」というかっこいい考え、これもわたくしの信ずるものです。
ですからわたくしは反体制でも反権力でもまったくなく、単にここでのべていることを実際に実行するといろいろと軋轢ができてまるで反体制とか反権力のようにとられてしまうのです。
ということで、生きるしかけは実に簡単なのですが、具体的な応用問題ですったもんだが起きてします。最近は大抵のことは黙っています。なにか言い出すと、かならず問題が発生してしまうのです。なかなか理論と実際の人生の過ごし方は違うものです。

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