きょうは旧暦の正月です。お祝いはしませんが、新春というか賀春という気持ちになりました。天気もよく外の仕事に精を出しました。
昨日の夜つまり大晦日に安曇川で食べたイタリアン、まったく期待してなかったからかめっけものでした。店の名前がイタリア語でありがとうでした。
鳩山首相の弟さんの兄首相に関する証言、感じが良くないです。なにも母親をだして、母が彼に、兄が母に子分に配るためのお金をせびっているなどというエピソードを同僚議員(つまり与謝野議員)に言わなくともいいのに。世間はだまっていても呆れているでしょう。本当かどうかなんて知りたくないです。これはい過ぎたと反省したのか、言い直しの記者会見での弟氏の顔を見ているうちに、「羨望」と「嫉妬」という言葉を思いだしました。
弟氏は兄に対して、どちらかの感情で動いているのではないかと邪推されてもしかたがないでしょう。
世の中の倫理観のなかには、羨望はいかんが、嫉妬はしかたがないというのと、嫉妬はいかんが羨望はしかたがない、というのがあるようです。どちらもいかん、というのもあるのでしょう。どっちもいいじゃないか、というのもあるに違いありません。わたくしはそのうちのどれがいいのか、さっぱり分かりません。うらやましい、というのは温和な感情ならまあ、いいんじゃないか、でも強烈な羨望感はよくないかもなどと、曖昧にしか考えられません。これが嫉妬などとなると、焼き餅ですか、男女のなかの嫉妬というのは理論的に理解はできても、男同士の嫉妬心というのはこれは分かりません。
たしかに若いとき、20代半ば頃までは感情の起伏があったでしょうから、嫉妬や羨望心を持ってしまう可能性があったと思うのですが、わたくしというかたぶん我々の世代のおおくはそういう感情に蓋をして生きて来たような気がします。世代がそうでないのなら、わたくしは学問に人生を賭けるのなら羨望と嫉妬心はもっとも邪魔になると非常に若い頃におもって、極力そういう感情に支配される機会を持たないように努力したことは事実です。つまり羨望と嫉妬の病にかかったら大変、ものすごくエネルギーを消耗すると思ったわけです。
たしか大学紛争で参って山登りに精を出していた頃、政治とはいったい何なのだとかんがえたときに、政治は嫉妬心がすごくなるから大変なんだと、何かの時に思ったのか、理解したのか、誰かの述懐を聞いたのか、それで政治は考えるけれども決して参加しないと決めたものでした。24,5才の頃で、まあ正解だったのでしょう。革命というものがすんだ後の革命家のあいだでの殺しあいというものがものすごい、あれはみんな嫉妬心によるんだ、ということを酒を飲みながら真面目にいっていたのはSさんだったな、いまもう70才を過ぎているけれどもどこにいるんだろうなどと、だんだんとりとめなくなってきましたのでここらあたりでやめておきましょう。
オリンピック、選手に期待しすぎでしょう。
メダル、メダルと10秒おきにわめくアナウンサーを聞いていると、まさに拝金主義とおもいます。
平素見ないスポーツを見て楽しむという視点のないこの放送系の人達に、韓国や中国がどんどんメダルを取っているのを見て、羨望を感じるのか、それとも、と聞いてみたいです。
わたくしは東アジアというのは豊かになってくるとなんでもすごい、でも日本は一歩先をいっていたのに、今はなんでも後塵を拝するようになりつつあるように見えるのはなんでだろう、つらいなとは感じます。羨望も嫉妬も感じませんが、こうなるのはしかたないと思わざるをえません。