「追記」昨夜、近江舞子の花火を見ました。7時半から8時半まで刈ったばかりのきれいになった空き地で見ました。こんなに贅沢に花火を見れたことかつてあったでしょうか。豪勢で、見事でした。子供たちだれも見たことありません。いちど見せてやりたいものです。
きょうまた猛暑、いったい雨が降らない日が何日つづいたのか。植物が緑の葉っぱをまだまだ持っているのが不思議です。ともあれ朝のうちに昨日やった草刈りをほぼ完成。でもここらが限界で家のなかに撤退しました。明後日からカナダに行くので、次の週末は空くので大変心配ですがしかたありません。
昨日の話題の続きですが、もうすこし才能について言葉を足しておきます。
わたくしは誰でも才能を持っていると思っております。それも一つだけでなく複数あるのでしょう。
でもそれというかそれらを発見出来た人はそう多くないでしょう。誰かにその才能の存在を教えて貰えたらどんなに楽でしょう。
走るのが速いとか、それもただ事でなく速ければ、本人が気づく前に周りが気づくでしょう。
このあいだテレビで見た盲目のピアニスト辻井伸行さんの感動の経歴も早い時期にその天分がまず両親からその世界のプロの権威に見いだされたことがあるのでした。さらに少年時代ずっと指導した先生もおりました。こういう場合、本人のすごい努力もあったようですが、周りの人間がこの辻井さんの才能を天からの授かり物のように感じていたことが才能というものをある程度説明するかと思います。
希有の才能というものはあるにちがいありません。一千万人にひとり一億にひとりという確率かもしれない才能はたしかにある。その才能によって時代がかわる。モーツアルトひとりでいまもどれくらいの多くの人々が喜びを見いだしているでしょうか。
でも才能の種類というのはどれくらいあるのか、これは無数にあるというべきだと思うのです。昔からの身体能力や頭脳や感性にもとづく能力もあるでしょう。
しかし、新しい時代には新しい時代の才能が必要、コンピュータ時代にはコンピュータ周辺に多種して多数の才能が新規に生まれています。
グローバル時代にはもちろんあらたな才能が生まれてきているはずです。才能の種類が一億とは思いませんが,我々の持つ遺伝子の種類くらいはあってもおかしくありません。
そのうえ才能が開くのはなにも若いときに限りません。高齢になってからも才能が花開くかもしれません。高齢化時代人類はあたらしい世紀に入ったはずです。日本からは沢山の高齢者の身体能力の世界記録を生みだしていると聞きます。他の分野だってそうでしょう。
屋外での仕事にでる前にちょっと見たテレビ番組で90才以上の女性の作る詩が感動を引き起こしているとのことでした。驚くことはありません。90才になったからこそ感じるものがあるはずです。
自分の持つ才能を発見したいものです、そのためにはいろいろ試みないと。
まず自分が認めないと。この部分は自己愛と感ずるかもしれませんがそうでないのです。才能は自分でなく、自分のなかにある客体と思えばいいのです。
他人も同じように認めてくれるかもしれません。そうだったら嬉しいでしょう。でもゴッホの絵を存命中に買った人は立った一人と聞きます。めげることはありません。周りの誰もが認めなくとも。
こういう態度でできるだけ才能を自分のなかにある客観物のようにみなして、それをたゆまず育てていく態度をとりたいとおもうのです。
なぜかというと他人とのつきあいでいつもいちばん心がゆたかになるのはその人のもつ一番の魅力がその才能に基づいていると感じるからです。
おわりにひと言。才能で御飯が食べられるか。まず食べられません。
ですから、三度の食事を得るためには別のことをしないといけません。
生活力がある人間というのは、まず食べることが出来ることです。そのうえでの才能の話です。子供でなければそうなってしまいいます。
ここがわからない人間というか若者が日本には溢れてきたのでしょう。だから才能の話が話題に出来ないのかもしれません。でも腹をくくれば極貧だって才能のためには好きなことが出来るかもしれません。でもそれを隠れてこそこそでなく、広言してほしい。